第五章 立場の反転
舟木隆が倒れたという知らせは、翠松園の朝礼が終わった直後にもたらされた。脳梗塞。右片麻痺と言語障害。命は取り留めたものの、単身生活は困難――そう医師は告げたという。
舟木は、この町で長く力を持ってきた男だった。市会議員であり、建築会社の経営者であり、翠松園の設立者であり理事長。行政も、医師も、施設職員も、彼の名前を知らない者はいなかった。
だからこそ、彼が「入所先は翠松園で」と決めたことに、誰も異を唱えなかった。
入所当日、舟木はストレッチャーで運び込まれた。以前、完成披露の席で見せていた精悍な顔つきは影を潜め、左半身だけがかろうじて動いている。言葉は断片的で、意思疎通には時間がかかった。
「……ここ、は……」
三浦恒一は、入所オリエンテーションを担当することになった。皮肉な巡り合わせだと、彼自身も感じていた。舟木がこの施設をどう語り、どう守ってきたかを、三浦は嫌というほど知っていたからだ。
医師からの指示書には、はっきりとこう記されていた。
〈誤嚥リスク高。刻み食、トロミ必須〉
かつて、幾度となく形骸化してきた文言だった。
舟木は個室に移され、ユニットの一員となった。特別扱いはしない――それが施設長の方針だった。三浦はその言葉を聞き、胸の奥で何かがひっくり返るのを感じた。
夜勤。舟木はナースコールを何度も押した。体位が苦しい、水が欲しい、言葉が出ない不安。だが、その夜、夜勤者は一人だった。
「少し待ってください」
その言葉は、かつて三浦自身が何度も口にしてきたものだ。だが舟木は、その「少し」が何を意味するのかを、身をもって知ることになる。
食事の時間。刻み食は用意されていたが、忙しさの中でトロミは省略された。誰も悪意を持っていなかった。ただ、間に合わなかっただけだ。
介護記録には、いつもと同じ言葉が並ぶ。
〈食事介助実施。大きな問題なく摂取〉
舟木は、飲み込みづらそうに咳き込みながら、それでも口を閉ざした。声を上げても、届かないことを、すでに悟っていたのかもしれない。
三浦はその様子を見ていた。だが、声を荒げることはできなかった。自分もまた、この仕組みの一部だからだ。
かつて「どんな人でも受け入れる」と言った男は、今やその言葉の内側に閉じ込められていた。
立場は、完全に反転した。
そしてこの反転は、誰かの意思ではなく、制度そのものによって起こっていた。




