第四章 指摘事項なし
県の指導監査が行われたのは、十月の半ばだった。日程は二週間前に通知され、対象は「介護保険法に基づく定期指導」と明記されていた。翠松園の事務室には、いつになく緊張した空気が漂っていたが、それは恐怖というより、段取りを確認するための忙しさに近かった。
監査前日の夕方、職員は総出で記録の整理に追われた。未入力の介護記録は遡って補完され、事故報告書は文言が統一された。「不可抗力」「突発的事象」「経過観察」。どれも、これまで何度も使われてきた言葉だ。
「利用者さんに直接話を聞かれることは、まずないから」
施設長はそう言って職員を安心させた。実際、過去の監査でも、調査官がユニットを一巡する程度で、入所者本人への聞き取りが行われたことはなかった。
監査当日。県の職員は二名だった。どちらも淡々としており、感情を表に出さない。まず会議室で概要説明が行われ、その後、書類確認に入った。
「夜勤体制についてですが」
一人の調査官が問いかける。
「基準上は満たしています」
施設側は即答した。実際、最低基準は満たしている。問題は、その基準が現実に即していない点にあったが、それは監査の対象外だった。
事故報告書、介護記録、マニュアル。ページをめくる音だけが、会議室に響く。調査官は赤ペンを持っていたが、チェックを入れることはほとんどなかった。
「死亡事例について」
別の調査官が顔を上げる。
「嘱託医の死亡診断書があります」
施設側は、用意していた書類を差し出した。そこには「誤嚥性肺炎」「医学的に妥当」と記されている。
「事故性は低いですね」
その一言で、この話題は終わった。
午後、形式的な施設内巡回が行われた。居室は整えられ、異臭もない。ナースコールは正常に作動する。利用者は穏やかに過ごしているように見えた。
ただ一人、車椅子の男性が調査官をじっと見つめていた。口を開きかけ、何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。調査官は気づかないふりをして通り過ぎた。
巡回後、再び会議室に戻り、講評が行われた。
「現時点では、大きな問題は確認できませんでした」
一瞬の沈黙のあと、調査官は続けた。
「軽微な改善点はありますが、指摘事項とするほどではありません」
そして、最後にこう締めくくった。
「指摘事項はありません」
その言葉が発せられた瞬間、会議室の空気が緩んだ。職員の何人かは、ほっと息をついた。
三浦恒一は、その場で何も言わなかった。ただ、巡回中に見た車椅子の男性の目が、頭から離れなかった。
その夜、三浦は記録端末を前に、いつもと同じ文言を入力した。
〈日中帯、特記事項なし。様子観察〉
画面に表示されたその文章を見つめながら、彼は思った。
これ以上、何をどう書けばよかったのだろうか、と。




