あとがき
本書に記された出来事は、特定の事件や人物を直接に描写したものではない。実在の施設名、人名、自治体名はいずれも用いていない。しかし、ここに描かれた制度、運用、判断の連なりは、取材と公開資料、そして現場で日常的に行われている手続に基づいて構成されている。
高齢者介護の現場では、事故と事件の境界は明確ではない。多くの場合、判断は分散され、責任は共有され、結果は記録に回収される。何が起きたのかは、数値と書式で示され、示された範囲の外にあるものは「確認できない」とされる。確認できないものは、存在しないのと同義になる。
本書が扱ったのは、違法行為の告発ではない。意図的な加害や陰謀の存在を主張するものでもない。むしろ、すべてが正しい手続の範囲内で行われたとき、どのような結果が生じうるのかを、可能な限り冷静に並べただけである。
医療は妥当であり、介護は標準的であり、行政は規定に沿って対応した。その積み重ねの末に残るのが「指摘事項なし」という結論であることは、制度上、何ら不自然ではない。
記録は事実を保存するためにある。しかし同時に、記録は事実を選別する。残るものと残らないものが生じ、その差は、後から埋めることができない。本書で繰り返し示したのは、その差分が生まれる瞬間である。
登場人物の多くは、善意で行動している。少なくとも、悪意を証明できる人物はいない。だが、善意が結果を保証するわけではない。現場の忙しさ、人員不足、前例への依存、様式化された文章。それらは個人の資質とは無関係に、判断を省略させる力を持つ。
本書は結論を提示しない。読者に対して、特定の解釈や怒りを要請しない。ただ、現実に存在する制度の輪郭を、物語という形式で可視化したに過ぎない。
もし、本書を読み終えた後に、どこかで見た書式や言い回しが、以前とは違って見えるとしたら、それは偶然ではない。記録は今も作られ続けており、その多くは、問題なく保管されている。
以上が、本書をまとめるにあたって確認できた事実と、構成上の判断である。
特別な結論はない。
指摘事項も、ない。




