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指摘事項なし  作者: キロヒカ.オツマ―


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第二十七章 前例

佐原義明の死亡から二週間が過ぎた頃、翠松園では小さな変更がいくつか行われていた。掲示板に貼られた通達は一枚だけだったが、職員たちはそれを見て、何が変わったのかを理解した。


「急変時対応の流れについて、再確認する」


再確認、という言葉は、改善を意味しない。これまでのやり方が、正しかったという前提を共有するための言葉だった。


夜勤マニュアルの該当箇所には、赤線が引かれた。


〈呼吸状態悪化時は速やかに救急要請を行う〉


新しい文言ではない。以前から書かれていた。だが、その下に追記された一行が、すべてを決めていた。


〈判断に迷う場合は、前例を参照すること〉


前例。


三浦恒一は、その言葉を見た瞬間、佐原の名が浮かんだ。正式な名前ではない。記録上の存在としての佐原だ。


会議室で行われた短い説明会では、事務長が淡々と話した。


「先日の件は、対応として問題はありませんでした。行政からも特段の指摘はありません」


問題がなかったという事実が、基準になる。


「ですので、今後も同様のケースでは、同じ流れで対応してください」


誰も反論しなかった。反論する理由がない。結果として、施設は守られた。


その日の夜勤で、三浦は新人職員の質問を受けた。


「もし、あの時みたいに……呼吸が苦しそうな人がいたら、どう判断すればいいんですか」


三浦は一瞬、言葉を探した。


「記録を見て」


それが、最初に出た答えだった。


「佐原さんのケースを参考にすればいい」


口にしてから、三浦は気づいた。自分が今、何を基準として提示したのかを。


新人は安心したように頷いた。前例があるということは、迷わなくていいということだ。


だが、その前例には、数字の裏付けがなかった。夜の間に測定されなかった数値。入力された時刻。確定した文書。


それでも、前例は力を持つ。


数日後、別の入所者が軽い呼吸苦を訴えた。夜勤者は、ナースコールを取ると、まず記録端末を開いた。


〈佐原義明:急変、救急要請、問題なし〉


同じ言葉が、画面に並ぶ。


救急要請は少し遅れた。だが、それは「様子観察」の範囲だった。前例に照らせば、許容される。


翌朝、何事もなかったかのように申し送りが行われた。報告書は作成されない。問題が起きていないのだから。


三浦は、その様子を遠くから見ていた。


佐原の死は、終わっていない。


それは、基準として生き続けている。


前例は、次の判断を容易にする。その容易さが、境界をさらに曖昧にしていく。


誰も悪意を持っていない。


ただ、一つの死が、正しい対応として保存された。


三浦は思った。


もし次に、同じような夜が来たとき。


そのとき参照されるのは、記録された佐原であり、生きていたかもしれない佐原ではない。


前例とは、そういうものだ。


それは、過去を参照するふりをして、未来を決める。

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