第二十六章 時刻
死亡診断書の写しが、施設に届いたのは午後だった。事務長はそれを受け取り、他の書類と同じようにクリアファイルに挟んだ。特別な扱いはされない。すでに処理は終わっている。
三浦恒一は、その写しを一瞥しただけで目を逸らした。そこに記載されている時刻が、どのように決められたのかを、彼は考えないようにしていた。
死亡時刻。午前五時五十五分。
救急隊到着から十五分後。病院到着前。医師が直接確認した時刻ではない。
だが、その数字に疑義を挟む者はいなかった。
医師は、搬送後の状態から逆算しただけだ。救急隊は、引き継ぎを受けただけだ。施設は、記録を提出しただけだ。誰も判断していない。ただ、時刻が必要だっただけだった。
三浦は、夜勤記録を思い返した。 五時四十分、救急隊到着。 五時五十分、搬送開始。
そして、その間にあるはずの空白。
その空白に、何があったのかを、誰も書いていない。心拍があったのか。呼吸が続いていたのか。それとも、すでに反応はなかったのか。
記録は、問いに答えるためのものではない。手続きを進めるためのものだ。
事務長が言った。
「死亡時刻は、この時間で確定ですね」
確認ではなかった。決定でもなかった。ただの共有だった。
「はい」 三浦は答えた。
その瞬間、彼は理解した。
時刻は、観測されたから存在するのではない。 入力されたから、存在するのだ。
もし、五時三十分と入力されていたら。 もし、六時十分と入力されていたら。
そのどちらでも、同じ書類が完成していただろう。
三浦は、ふと考えた。
佐原義明は、いつまで生きていたのか。
問いは、すぐに意味を失った。答えが出る構造ではない。問いを立てる場所自体が、もう残っていなかった。
夕方、施設内放送が流れた。通常業務に戻ることを告げる内容だった。職員たちは、それぞれのユニットへ散っていく。
生と死の境界は、今日も曖昧なまま、勤務表の行間に埋もれていく。
その曖昧さこそが、ここでは日常だった。




