第二十四章 記録の確定
死亡診断書が発行された翌日、翠松園の事務室では、静かな作業が続いていた。騒然という言葉とは程遠い。コピー機の低い駆動音と、キーボードを叩く乾いた音だけが、午前中の空気を満たしている。
事務長は、机上に積まれた書類を一枚ずつ確認していった。 介護記録、事故報告書、経過報告、家族説明用メモ、行政提出用様式。いずれも既存のフォーマットに沿ったものだった。新しい文章はほとんどない。必要なのは、日付と署名、そして言葉の統一だけだった。
三浦恒一は、少し離れた席でその様子を見ていた。指示を受けているわけではない。ただ、呼ばれれば対応できるように、という名目で座っているだけだった。
「ここ、“急変”でいいですね」 事務長が、淡々と確認する。 「……はい」 三浦は短く答えた。
急変。 それは原因を問わない便利な言葉だった。過程を圧縮し、責任を拡散し、時間を消す。昨日の夜勤から今朝までの数時間は、その二文字に吸い込まれていく。
記録の修正は、事実の改変ではなかった。表現の整理にすぎない。 「未実施」は「実施困難」に、「確認できず」は「確認済み」に置き換えられていく。誰かが虚偽を書いているという感覚は、そこにはなかった。ただ、問題にならない形に整えているだけだった。
三浦は、自分が書いた介護記録を思い出した。夜勤明け、眠気と焦りの中で入力した文章。曖昧な時間表記。省略された観察項目。それらはすでに、他の職員の記録と整合する形に編集されていた。
「これで一式、揃います」 事務長が言う。
揃う、という言葉に、三浦は違和感を覚えた。揃ったのは書類だけだ。経過も、疑問も、判断も、すべてが“書類として揃った”にすぎない。
午後、理事長室だった部屋で、最終確認が行われた。今は空室だ。主を失った部屋は、異様なほど整然としている。
施設長代行が署名を入れ、押印する。 その瞬間、佐原義明の最期は、完全に「記録」になった。
記録は固定される。 一度固定された記録は、後から揺らがない。たとえ別の事実が存在していたとしても、それは記録の外側に押し出される。
三浦は、署名済みの書類の束を見つめながら思った。
――これで、この人は二度死んだのだ。
一度目は、病院で。 二度目は、この部屋で。
夕方、行政への提出が完了したという報告が回ってきた。メール一通で、すべてが終わった。
その夜、翠松園はいつも通りだった。 ナースコールは鳴り、職員は足りず、記録は後追いで入力される。
そして、確定した記録は、次の誰かを待つための“前例”として、静かにファイルに綴じられた。




