第二十二章 病院
病院は、朝の時間帯が最も忙しい。
救急搬送された佐原義明が処置室に入ったのは、六時二十分を少し回った頃だった。夜勤と早番の境目、外来患者がまだ少なく、しかしスタッフの引き継ぎが重なる時間帯。救急外来は静かに混乱していた。
酸素投与下でもSpO2は改善しなかった。胸部聴診で湿性ラ音。レントゲンの所見は、誤嚥性肺炎として典型的だった。医師は迷わない。抗菌薬、補液、酸素。標準的な初期対応。遅れはない。
問題は、いつから始まっていたか、だった。
「施設では、いつ頃から?」
救急隊からの引き継ぎ内容を、医師はカルテに入力しながら確認する。 「今朝五時頃から、呼吸状態が悪化したと」
その情報は、記録として正しい。誰も虚偽を述べていない。医師はそれ以上を掘り下げない。掘り下げる理由がない。目の前の患者は、すでに「結果」の段階にある。
佐原は、意識レベルが低下していた。呼名反応なし。痛覚刺激にわずかな反応。挿管の適応が検討される。だが年齢、基礎疾患、事前指示書。延命の希望は限定的だった。
担当医は、判断を急がなかった。急ぐ理由がない。ここでは、急ぐことが必ずしも善ではない。
八時前、家族に連絡が入る。姪は電話口で、言葉を失った。 「昨日、面会した時は……」
医師は遮らない。ただ、事実を淡々と伝える。誤嚥性肺炎、高齢、重症。回復は厳しい。治療は行うが、予後は不良。
病室は個室だった。モニター音が一定の間隔で鳴る。数値は、安定していないが、破綻もしていない。数値が存在することで、状態は管理下に置かれる。
三浦恒一が病院に到着したのは、九時過ぎだった。通勤ラッシュを避けることはできなかった。受付で名乗り、病棟に案内される。病院は、施設とは違う論理で動いている。
医師からの説明は簡潔だった。 「誤嚥性肺炎です。施設でよくあるケースです」
よくある、という言葉が三浦の耳に残った。頻度が高いことと、避けられないことは同義ではない。だが、医療の場ではしばしば同一視される。
「施設側の対応については……」
三浦の問いに、医師は首を振った。 「こちらでは評価できません。医学的には、自然な経過です」
自然、という言葉が、また一つ境界を引いた。
正午前、佐原の呼吸状態はさらに悪化した。酸素濃度を上げても改善しない。意識は戻らない。医師は家族を呼び、最終的な確認を行った。積極的治療は行わない。
午後、モニターの波形が平坦になる。時刻、十四時二分。
医師は死亡確認を行い、死亡診断書の下書きを始めた。死因は、誤嚥性肺炎。発症から死亡までの時間は、不明。
不明、という空欄は、責任の所在を曖昧にする。
その空欄が、後に誰も越えられない境界になることを、まだ誰も知らなかった。




