第二十一章 通報
通報は、決断ではなく、手続きとして行われた。
五時二十二分。ナースコールが鳴った時点で、夜勤者の中では流れが決まっていた。コールは管理者用の内線につながる。管理者は出ない。時間帯を考えれば当然だった。次にかける番号は、嘱託医ではない。救急だ。
だが、その前に確認が必要だった。呼吸、脈、意識。夜勤者は手順通りに進めた。呼吸は浅く、数は不整。脈は触知できるが弱い。呼名反応なし。ここまで来れば、判断は個人の裁量を超える。超えた瞬間、責任は個人から制度へ移る。
五時二十五分、119番。
「高齢者施設です。入所者の呼吸が不安定で……」
通報内容は簡潔だった。意識障害、呼吸苦、誤嚥疑い。オペレーターは慣れた調子で質問を返す。年齢、性別、既往、現在の状態。夜勤者は答えられる範囲で答えた。SpO2は不明。測っていない。
救急隊到着までの指示が出る。気道確保、体位変換、可能なら吸引。すでに行った内容だ。新しいことはない。
五時三十分。館内放送で早番職員が呼ばれる。人が集まり始める。人が増えると、空気が変わる。個人の判断だったものが、共有された判断に変わる。
三浦恒一は、理由もなく目を覚ました。
目覚ましの鳴る時間には、まだ早い。自宅の天井を見つめながら、胸の奥に沈むような違和感だけが残っていた。夢を見ていたわけではない。音もない。ただ、身体だけが先に何かを察知したような感覚だった。
携帯電話は、まだ鳴らない。通知もない。それでも三浦は一度、枕元の端末に手を伸ばし、画面を確認した。何も表示されていないことに、かえって不安が増した。
その数分後、携帯が震えた。
「今朝、救急搬送がありまして……」
電話の向こうの声は事務的だった。時間、名前、要件。必要な情報だけが並べられる。三浦は短く応答し、通話を終えた。
まだ、自分の役割は来ていない。
五時四十分、救急隊到着。ストレッチャー、酸素、モニター。数値が次々と可視化される。SpO2、82%。血圧低下。心拍数上昇。夜勤者は初めて、夜の間に存在していたはずの状態を、数字として突きつけられた。
「いつからですか?」
救急隊員の問いに、夜勤者は一瞬言葉を探した。 「……今朝、五時頃から」
その答えは、嘘ではない。ただ、真実の全体でもなかった。
酸素投与。吸引。反応は乏しい。救急隊は搬送を決める。決定は早かった。迷う理由がない。
六時前、佐原は施設を出た。廊下を通るストレッチャーを、早番職員たちが見送る。誰も声をかけない。声をかける言葉がない。
搬送先は、指定の協力病院。救急要請はマニュアル通りだった。連絡先、時間、内容。すべて記録される。記録されることで、手続きは完了する。
三浦の携帯が鳴ったのは、その後だった。 「今朝、救急搬送がありまして……」
電話の向こうの声は、事務的だった。三浦は短く応答し、出勤の準備を始めた。何をしに行くのか、自分でも分からない。ただ、行くべき場所があることだけは分かっていた。
通報は終わった。
だが、それは始まりではない。
終わりへの、正式な手続きに過ぎなかった。




