第二十章 夜勤
夜勤は、いつも予定より早く始まる。
引き継ぎの時間は三十分と決まっているが、実際には十分で終わることが多い。書かれていることは読めば分かる。書かれていないことは、口頭で補われない。夜勤に入る職員は一人だった。名簿上は二人配置だが、もう一人は別ユニットの急変対応に回されている。
佐原義明の引き継ぎは一行だった。 〈咳嗽あり。注意〉
注意、という言葉は具体性を欠いているが、違反ではない。夜勤者はそれを理解している。理解しているから、深く考えない。
二十一時、消灯。廊下の照明は落とされ、ユニットは静まり返った。静けさは、夜勤にとって最もありがたい状態だ。静かである限り、巡視は予定通りに進む。予定通りに進めば、何も起きていないと判断できる。
二十二時の巡視で、佐原は仰臥位だった。呼吸は規則的。胸郭の上下動に不整はない。咳はない。ナースコールは枕元にある。職員は、柵の高さを確認し、体位を微調整した。口腔内は見なかった。見る理由がない。
深夜零時。記録端末に入力を始める。巡視済み、異常なし。テンプレートに沿った文章が並ぶ。入力の途中で、別ユニットからコールが鳴った。転倒未遂。対応に十五分かかった。
戻った時、佐原の部屋は静かだった。静かすぎる、という感覚は主観に過ぎない。主観は記録にできない。
一時三十分、咳が聞こえた。短く、途切れるような音だった。夜勤者は廊下で足を止めた。数秒、耳を澄ます。続かない。続かない咳は、問題にならない。問題になるのは、連続した咳、呼吸苦、チアノーゼ。いずれも確認されない。
職員は時計を見た。次の巡視は二時。まだ時間がある。記録上、問題は発生していない。
二時の巡視。佐原は同じ姿勢だった。呼吸数を数えるには、部屋が暗い。照明をつければ覚醒する。覚醒すれば、転倒リスクが上がる。夜勤者は判断を下した。照明はつけない。
手を胸元に当て、呼吸を触知する。規則的。速くも遅くもない。体温は測らない。測定は、異常が疑われる時に行うものだ。異常は、まだ疑われていない。
三時過ぎ、吸引器の音が別ユニットから聞こえた。夜勤者は一瞬、そちらに意識を向け、すぐに戻した。自分の担当はここだ。すべてを見ることはできない。
四時前、再び咳。今度は少し長い。夜勤者は部屋に入った。佐原の口元に、泡沫様の唾液が見えた。白い。量は多くない。危険かどうかは、判断が分かれるところだ。
体位を側臥位に変える。背中を軽く叩く。反応はない。だが、呼吸は続いている。SpO2を測ろうか、という考えが一瞬浮かぶ。測れば数字が出る。数字が出れば、行動が必要になる。
夜勤者は、測らなかった。
理由は明確だ。測定器はナースステーションにある。離れれば、他の利用者を見られない。測って異常値が出れば、救急要請か看護師コールになる。看護師は不在。救急要請は、管理者判断が要る。
判断は、夜明けまで先送りされた。
四時半、呼吸音が変わった。ゴロゴロとした音。湿性ラ音。教科書的な危険信号だ。だが、教科書は夜勤の現実を想定していない。
夜勤者は吸引を行った。少量。改善は不明。記録には〈吸引実施〉とだけ入力した。回数も量も書かない。それは義務ではない。
五時。空が白み始める。夜勤者は、朝が来れば人が増えることを知っている。人が増えれば、判断が共有され、責任が分散される。
五時二十分、佐原の呼吸が浅くなった。回数を数え始めたところで、不整に気づく。ここで、境界ははっきりと現れた。
ナースコールを押す手は、佐原のものではなかった。
それは、夜勤者が初めて、自分の判断で押したコールだった。




