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指摘事項なし  作者: キロヒカ.オツマ―


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第二章 証拠不十分

市役所の高齢福祉課は、翠松園から車で十分ほどの場所にあった。三浦恒一が初めてそこを訪れたのは、入職から三か月が過ぎた頃だった。窓口は明るく、掲示板には「高齢者を地域で支える」と書かれた標語が貼られている。その光景は、彼の胸中にある澱とはあまりにもかけ離れていた。


 相談対応に出てきたのは、四十代半ばの女性職員だった。名札には「高齢福祉課 給付・指導係」とある。彼女は丁寧に頭を下げ、事務的な笑顔を崩さない。


「今日はどういったご用件でしょうか」


 三浦は言葉を選びながら、施設内で起きていることを話した。夜勤配置の実態、記録の後追い、死亡時の状況と報告書の文言。あくまで感情を排し、事実だけを述べたつもりだった。


 女性職員はメモを取りながら、何度か頷いた。


「お気持ちは分かります。ただ……」


 彼女は一拍置き、声を落とした。


「具体的な証拠はお持ちですか」


 その問いに、三浦は詰まった。写真も録音もない。あるのは、自分が見聞きした現場の光景と、記録に残らなかった事実だけだ。


「書類上は、問題がないように見えるんです」


 職員はそう言って、パソコンの画面をこちらに向けた。事故報告書、介護記録、嘱託医の意見書。どれも整然としており、文言に破綻はなかった。


「死亡診断も誤嚥性肺炎。高齢者施設では珍しくありません。これをもって、行政が介入するのは難しいんです」


 行政が動くには、違法性が必要だ。その違法性は、紙の上で証明されなければならない。三浦は初めて、その単純で残酷な理屈を思い知った。


 後日、内部通報として正式な文書が提出された。匿名扱い。だが内容は、三浦が口頭で伝えたものと大差ない。


 数週間後、返ってきた回答は一枚の文書だった。


〈現時点では、指導・監査を要する明確な事実は確認できませんでした〉


 末尾には、こう続いている。


〈引き続き、状況を注視します〉


 注視――その言葉は、何もしないことと同義なのではないかと、三浦は思った。


 同じ頃、翠松園では新たな入所者が増えていた。生活保護受給者、身寄りのない高齢者、精神疾患の既往がある者。受け入れを断らない方針は、確実に施設の負担を増やしていた。


 ある夜、別の入所者が発熱し、呼吸状態が悪化した。夜勤者は一人。医師への連絡は朝になってから行われた。記録には「夜間帯、様子観察にて経過」とだけ残る。


 その数日後、その入所者も亡くなった。


 市役所には再び情報が上がった。だが、返答は変わらなかった。


「証拠不十分です」


 誰かが嘘をついているわけではない。職員も、行政も、医師も、それぞれの立場で正しい判断をしているように見える。それでも、人は死んでいる。


 三浦は帰り道、役所の自動ドアが閉まる音を背に聞きながら思った。


 この仕組みそのものが、すでに一つの完全犯罪なのではないか、と。

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