第十九章 境界
境界は線ではなく、帯だった。
三浦恒一は、その朝、記録端末を前にしてしばらく動かなかった。画面には、佐原義明の前日分の経過が並んでいる。咳嗽、摂取量七割、姿勢不良の申し送り。どれも単独では「対応不要」に分類される。対応不要――それは安全を意味しない。ただ、行動を起こす義務が発生しない、という意味に過ぎなかった。
医師の指示書は変わっていない。刻み食、トロミ付加、誤嚥注意。遵守している、ことになっている。三浦は「遵守」という言葉が、いつから結果ではなく宣言になったのかを考えた。守ったから安全なのではない。守っていると書かれたから、問題がないと扱われるのだ。
午前のラウンドで、三浦は佐原のベッドサイドに立った。呼吸数はやや多い。だが、数えるほどではない。体温は平熱。SpO2は測っていない。測れば数字が出る。数字が出れば、境界が可視化される。だが、その行為自体が「余計な仕事」と受け取られる空気が、ここにはあった。
「今日は、どうですか」
佐原は返事をしなかった。視線が一瞬、三浦の胸元で止まる。言葉にならない何かが、喉の奥にある。三浦は唇の乾燥に気づき、加湿の設定を一段階上げた。それは善意だったが、介入ではなかった。
昼前、看護師が三浦に声をかけた。 「佐原さん、昨日の咳、記録では軽度ですよね?」 「ええ。今朝も落ち着いています」
そのやり取りで、境界は一歩、内側へ寄った。軽度――その評価は共有された。共有された評価は、次の判断の前提になる。
昼食介助。刻み食。トロミ。手順通り。佐原は一口ごとに間を置いた。介助者はペースを合わせた。合わせる、という行為が、進行を遅らせるのか、見えなくするのかは分からない。むせは一度。軽い。
午後、家族から再び電話があった。 「昨日より、声が弱い気がして……」
三浦は受話器を持ったまま、返答を選んだ。 「今のところ、急変はありません。様子は見ています」
様子を見る――それは最も無難で、最も責任の所在が曖昧な言葉だった。三浦はそれを分かって使った。分かって使った瞬間、境界はさらに曖昧になった。
夕方、理学療法士の回診はなかった。人手が足りない。優先順位の問題だ。姿勢の崩れは明日でいい。
夜勤の引き継ぎで、三浦は迷った末に一文を付け加えた。 〈咳嗽あり。注意〉
それ以上は書かなかった。書けなかったのではない。書かなかった。書けば、境界を越える。越えれば、対応が必要になる。対応は、誰がするのか。夜勤一人。現実は、そこにあった。
消灯後、ユニットは静かだった。静けさは、安定の証拠として扱われる。ナースコールは鳴らない。鳴らない理由は、眠っているからか、押せないからか、区別されない。
三浦は帰路につきながら、自分が何を守っているのかを考えた。利用者か、職場か、制度か。それとも、境界のこちら側にいる自分自身か。
境界は、もう引き返せない場所にあった。だが、越えたという実感だけが、まだ与えられていなかった。




