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指摘事項なし  作者: キロヒカ.オツマ―


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第十八章 予兆

予兆は、数値として現れる前に、順序として現れた。


 三浦恒一は、朝の申し送りでその違和感を覚えた。ユニット会議用のホワイトボードに並ぶ項目は、いつもと同じだった。体調変化、食事量、排泄、転倒。だが、報告の順が、微妙に変わっていた。食事量の話題が最後に回され、代わりに「夜間覚醒」「コール頻回」が前に出る。誰かが意図したわけではない。ただ、忙しさの中で、自然にそうなっただけだ。


 佐原義明の名は、会議で二度出た。いずれも短い。 「昨夜、少し咳がありましたが、今朝は落ち着いています」 「食事は七割。トロミあり」


 七割、という数字は安全圏の言葉だった。五割を切れば対策が要る。九割なら問題ない。七割は、そのどちらでもない。三浦は記録端末を開き、前日分を確認した。そこには、定型文が並んでいる。


〈咳嗽少量。様子観察〉 〈摂取量七割。問題なし〉


 問題なし、という言葉が、三浦の胸に残った。何が問題で、何が問題でないのか。その線は、いつから曖昧になったのか。


 同じ時間帯、看護師は別の利用者の対応に追われていた。点滴管理、褥瘡処置、インスリン。佐原のSpO2は測定されなかった。測らない理由はなかった。ただ、測る必然もなかった。


 昼食時、佐原はスプーンを口に運ぶ速度が遅かった。介助者は外国人実習生だった。真面目で、手順は守る。だが、日本語での微妙な訴えを拾うほどの余裕はない。 「ノド、ヘン」


 その言葉は、雑音に紛れた。ユニット内ではテレビがつき、別の利用者が大声で叫んでいた。介助者は、トロミの濃度を一段階上げた。それで十分だと、彼女は教えられていた。


 午後、三浦は廊下で、理学療法士とすれ違った。 「佐原さん、最近、姿勢が崩れてますね」 「ベッド上?」 「ええ。座位保持、少し辛そうです」


 それは予兆だった。だが、記録に残る形ではなかった。姿勢不良は、即時の事故に結びつかない。優先度は低い。


 夕方、家族からの電話が一本入った。 「最近、咳が増えている気がして……」


 対応した職員は、いつもの言葉を返した。 「季節の変わり目ですから」


 その説明は、嘘ではない。だが、十分でもなかった。


 夜勤に入った職員は一人だった。二十時の巡視で、佐原は眠っていた。呼吸は規則的。吸引は不要。ナースコールは鳴らない。問題は、まだ起きていない。


 午前二時、咳が一度だけ聞こえた。深夜のユニットでは、咳は珍しくない。職員は時計を見て、巡視の時間を待った。


 予兆は、ここまでだった。


 それ以上のことは、どの記録にも残らない。なぜなら、記録されるべき「異常」は、まだ定義されていなかったからだ。

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