第十七章 家族の視点
面会室は、どの特別養護老人ホームとも変わらない造りだった。白い壁、傷のついたテーブル、アルコール消毒液の匂い。違うのは、ここが翠松園であるという事実だけだった。
新しい入所者――舟木隆と酷似した条件を持つ利用者・佐原義明には、形式上の家族が存在していた。実娘ではない。妹の娘、いわゆる姪である。五十代前半。市外在住。介護の実務にはほとんど関わってこなかったが、後見人として書類上の責任を負っていた。
彼女が最初に違和感を覚えたのは、身体ではなく、言葉だった。
「お父さん、ここ……前より、話さなくなった?」
佐原は要介護4。脳血管性認知症。失語は軽度と診断されていた。以前は、意味は通らなくとも、声を出そうとする意志は見えた。しかし、この日は違った。目は開いている。視線は合う。だが、反応が遅い。
職員は言った。 「環境変化によるものですね。入所初期は、よくあります」
その説明は、どこかで聞いたことのある調子だった。彼女は後になって気づく。それが、どの職員からもほぼ同じ言い回しで語られていたことに。
面会は十五分。規則通りだった。コロナ禍以降、時間は短縮され、会話は遮断され、観察は制限された。
彼女は帰り際、何気なく聞いた。 「食事、ちゃんと食べられてますか?」
「ええ、刻みで。トロミもついてます」
その言葉は、介護記録にも、医師の指示書にも、同じ形で記されているはずのものだった。
だが彼女は、その後二週間で三度面会した。そのたびに、佐原の口腔内は乾いていた。唇は割れ、舌苔が目立った。口腔ケアがされていないと断定するほどの知識はない。ただ、以前の施設とは明らかに違った。
彼女は一度だけ、看護師に尋ねた。 「お口のケア、どのくらいの頻度で……」
返ってきたのは、曖昧な笑顔だった。 「必要時に、ですね」
その言葉が何を意味するのか、彼女は理解できなかった。必要かどうかを判断するのは誰なのか。記録なのか、現場なのか、それとも――。
数日後、彼女は市の高齢福祉課に電話をかけた。匿名での相談だった。
「施設の対応が、少し……不安で」
対応した職員は丁寧だった。だが結論は早かった。 「具体的な事故や、診断書がないと、こちらでは……」
電話を切った後、彼女は自分が何を期待していたのか分からなくなった。まだ何も起きていない。起きてからでは遅いと感じているだけだ。
その夜、彼女は面会時に撮った佐原の写真を見返した。ベッド柵、白いシーツ、点滴のない腕。異常はない。だが、表情が、どこかで見た記憶と重なった。
新聞記事だった。数年前、地方欄に載った、ある特養での入所者死亡事故。誤嚥性肺炎。行政指導。指摘事項なし。
彼女はその記事を保存していなかった。ただ、見出しだけが記憶に残っている。
――指摘事項なし。
その言葉が、なぜか、翠松園の面会室の匂いと結びついて離れなかった。




