第十四章 繰り返される兆候
三浦は、違和感がいつから始まったのかを正確には思い出せなかった。
それは一つの出来事ではなく、断片の積み重ねだった。だからこそ、誰も「始まり」を指摘できない。
新しい入所者は、朝の食事を残すようになった。全量摂取が七割、六割へと落ちていく。だが、体重の急激な減少はない。脱水を示す明確な数値も出ていない。
〈摂取量やや低下。経過観察〉
その一文が、事態を凍結させる。
咳き込みは増えていた。特に水分摂取時。だが、むせ込みは一過性で、すぐに落ち着く。吸引が必要な場面は、まだ発生していないことになっている。
夜間の覚醒回数が増えた。ナースコールは鳴らない。職員が巡視の際に気づく程度だ。
「眠りが浅いだけですね」
その評価に、異論は出なかった。
三浦は、以前の記録を開いた。舟木隆の最晩年のページ。日付を追っていくと、同じ言葉が現れる。同じ頻度で、同じ位置に。
〈様子観察〉 〈注意しながら対応〉 〈大きな変化なし〉
新しい入所者の記録にも、同じ語句が並び始めている。
偶然ではなかった。だが、必然とも言い切れない。その中間にあるもの――現場の判断が、無意識のうちに選び取る表現だった。
昼食時、新しい入所者は一瞬、呼吸を止めた。咳き込もうとして、声が出ない。顔がわずかに赤くなる。
「大丈夫ですか」
三浦が声をかけると、数秒後に咳が出た。呼吸は戻る。
「今の、ちょっとヒヤッとしましたね」
若い職員が言った。
「そうだね。でも、戻ったから」
三浦はそう答えた。舟木のときと、同じ言い回しだったことに、後から気づく。
記録には、こう残る。
〈食事中、軽度むせ込みあり。見守りにて対応〉
その文章を入力した指は、わずかに震えていた。
三浦は理解している。この兆候の先に何があるかを。だが、理解していることと、止められることの間には、深い溝がある。
止めるには、基準が必要だ。誰かが「今だ」と宣言しなければならない。その宣言は、責任を伴う。
そして、責任を引き受ける理由が、どこにも存在しない。
兆候は、確実に繰り返されている。
同じ速度で、同じ順序で。
それは事件の予兆ではない。
日常の再現だった。




