第十二章 三浦の限界
三浦恒一は、記録室に一人残っていた。
端末の画面には、舟木隆に関するすべての記録が並んでいる。入所時のフェイスシート、ケアプラン、看護記録、事故報告書、行政への提出文書。どれも整っており、相互に矛盾はない。時間は直線的に流れ、言葉は慎重に選ばれている。
整いすぎている、と三浦は思った。
自分の記載した文章が、他人の文章と自然に接続され、ひとつの「説明」になっていく過程を、彼ははじめて外側から眺めていた。そこに感情は含まれていない。含まれていたとしても、削ぎ落とされ、平坦化され、事実の衣を着せられる。
三浦は過去の夜勤表を開いた。あの夜の配置、応援要請の有無、他ユニットのコール履歴。すべては想定内だ。想定内であることが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
――どこで止められたのか。
自分に問いかける。だが、問いはすぐに行き止まりになる。止めるための明確な「線」が、どこにも引かれていないからだ。線がない以上、越えた瞬間も存在しない。
三浦は内部通報の書式を思い出した。以前、別の利用者の件で下書きだけ作ったことがある。だが、提出には至らなかった。理由は単純だ。書けなかったのだ。
何を、誰の責任として、どの規定違反として書けばいいのか。
「おかしい」という感覚はある。しかし、感覚は項目にならない。違和感は証拠にならない。彼はそれを、現場で誰よりも知っていた。
相談窓口の電話番号が掲示板に貼られている。匿名可、と書いてある。だが、匿名で語れるのは事実だけだ。判断の遅れや、空気の圧力や、忙しさに負けた沈黙は、匿名にしても残らない。
三浦は、舟木が入所してきた日のことを思い出す。職員の空気が、わずかに変わった。緊張でも忖度でもない、別の何か。触れない方がいい、という了解が、言葉にならずに共有された。
その了解を、彼自身も受け入れていた。
受け入れた瞬間が、いつだったのかは分からない。だが、確実に受け入れていた。その事実だけが、今になって重くのしかかる。
三浦は、端末を閉じた。
自分は探偵になれない、と理解したからだ。証明できない以上、問いを立てる資格すらない。制度の中では、問いは証拠と同時にしか存在できない。
限界は、能力の問題ではなかった。
制度が許す範囲でしか、彼は考えられない。考えられないことは、存在しないのと同じだ。
記録室を出ると、廊下にはいつもの音が戻っていた。配膳カートの車輪、ナースコール、職員の足音。翠松園の日常だ。
三浦はその中に戻っていく。
問いを持たない者として。
それが、彼に許された唯一の立場だった。




