手を洗う
私の会社のトイレには常に手を洗っている人がいる。
いや、正確には私がトイレに行ったタイミングで常に見かける、ということだが。
少し前から、私がトイレに行くと必ず彼が手を洗っており、私が用を済ませてもそれは続いている。結局、いつも私が先に離れることになる。常に手を洗っていること以外には、特徴らしい特徴もない人だ。
最初は別のフロアのトイレが混んでいるせいで、他の部署の人が来ているだけだろうと思っていたのだが、偶然とは言えこうも続くと気味が悪い。
何人かの同僚に聞いたところ、皆、そのような人は知らないとのことだった。
誰かに付いてきてもらおうかとも思ったが、小さな子供でもあるまいし、からかわれるのは目に見えている。ただでさえ後輩の一人などには、疲れてるせいで幻覚でも見たんじゃないですか、と笑われたのだ。
そのため、最近はなるべく会社のトイレを使わないようにしている。
その日は私の所属する部署での小さな催しがあった。幾らかの食べ物や飲み物をフロアに持ち込んでの、ささやかな飲み会だ。
会が始まってからしばらくして、トイレに行きたくなった。
後輩に声をかけ、トイレに向かう。
「例の人、またいるんじゃないですか?」
後輩が嫌な冗談を言いながら笑う。そうは言っても定時も大分過ぎているのだし、彼もいないだろう。
しかし、私の期待は裏切られた。石鹸の香りが漂うトイレで、彼はいつも通り手を洗っている。
「すみません」
いい加減、彼がどの部署に所属する人なのかくらい知っておきたい。アルコールの影響で気が大きくなっていたのか、とうとう声をかけてしまった。
だが、彼は何の反応を返すこともなく手を洗い続けている。
わずかに怒りを覚えたが、不気味さの方が勝る。
用を済ませ、手を洗い続ける彼の横に立つ。
鏡越しに彼の様子を見るが、彼はいつも通り脇目も振らずに手を洗い続けている。あるいは何かの精神疾患を抱えているのかもしれない。
私は手を洗い終え、トイレを出ようとしたが、何故かドアが開かない。
体重を掛けて押してみても微動だにしない。ロックされてしまったのだろうか。
携帯電話を取り出してみたが、電池切れだろうか電源が入らない。
背後から彼の手を洗う音が聞こえる。
私は彼の隣に戻り、もう一度声をかけてみることにした。
「すみません。ドアが開かなくなったみたいなんです。あなたの携帯電話をお借りしても?」
彼からの反応はない。このような状況に置かれたこともあり、苛立ちを覚えた。
「すみません」
思わず語気を強め、手で彼の肩に触れてしまう。
彼は手を洗い続けたまま、首だけを回してこちらを向いた。
その不自然な動作と、彼の無機質な表情に怯んでしまう。
私が何も言えずにいると、彼は向き直った。閉じ込められるにしても、これなら一人で閉じ込められた方がずっとマシだ。
とにかくしばらくの辛抱だ。飲み会は続いているのだし、私が長い時間戻らなければ、誰かしらが来てくれるだろう。
正確な時間は分からないが、十数分は経ったのではないだろうか。何度かドアを叩いてみたが、誰の来る気配もない。
手を洗う音は続いている。もはや彼の姿を見るのにも抵抗があり、なるべく目を向けないようにしている。
不意に照明が消えた。完全な暗闇に包まれる。
まさか、会社から誰もいなくなってしまったのだろうか。
手を洗う音が大きくなった気がした。
「誰か! 誰か来てくれ!」
ドアを叩きながら大声を上げる。
私が声を出すのをやめると、手を洗う音だけが響く。せめてその音が聞こえないように声を出し続ける。
「誰か! 誰か! 助けてくれ!」
音が止んだ。
石鹸の香りが強くなる。
「誰か!」
ドアを全力でたたく。
私の肩が、背後から掴まれた。冷たく、乾いた感触が伝わる。
振り返る。
彼の無機質な顔が暗闇の中、私を見ている。
彼は何も言わない。
ただただ私を見つめている。
その目は、真っ暗な穴のように見えた。
何も言わない。
穴が見つめる。
私は耐えられなくなり、思わず彼を突き飛ばしてしまう。
彼は力なく数歩下がり、倒れこむように頭を鏡に打ち付けた。
鏡の砕ける音が響き、暗闇に鮮血が散った。
床に倒れた彼の、無機質な瞳が私を見つめている。
彼を突き飛ばした感触が私の手を離れない。
自分の手がひどく汚れている気がする。
手を洗わなければ。
「先輩。大丈夫ですか?」
背後から、どこか聞き覚えのある声がした。
私は明るいトイレで手を洗っている。
「飲みすぎですか? 遅かったんで様子見に来ました」
隣で手を洗っていた男が振り返り、頷きを返して手洗い場を離れていく。
鏡越しに見ることしかできなかったが、その男にはひどく見覚えがあった気がする。
「さすがにこの時間じゃ、例の人もいないみたいですね」
背後でドアが閉まった。
私は一人トイレに残り、手を洗い続ける。
手を洗わなければ。