第5章:緋色の検疫
通りは相変わらず静まり返り、金髪の髪がわずかにのぞくフード姿の男が、ガスマスクを装着したまま鉄の扉をそっと押し開ける音だけが響く。
「…大丈夫、大丈夫…」
彼は自分に言い聞かせるように呟き、死体の一つもない通りを見回す。その光景に胸が高鳴り、鈍い痛みが彼を後退させそうになる。ここで引き返せば、2年間ずっと過ごしてきた慣れた場所に戻れる。あの「何も変わらない」世界へ。敵のアンドロイドがうろつき、食糧も乏しいが、それでも知っている危険の方が楽だと思ってしまう。
「…そうだ、大丈夫…ここで引き返せば…」
彼は吐き気をこらえながらうつむく。胃が焼けるように痛み、涙が目に滲む。
「なぜ…こんなに怖がってんだ、くそ…」
地面を強く踏みしめ、上体を起こす。
「ただの…きれいな通りと、変なシンボルだろ!」
自分でも気づかないうちに声を張り上げ、空を仰ぐ。大きく息を吸い、一歩を踏み出す。
「…大丈夫だ。」
【これは未知のものだ。】
男の手が震える。
「心配するだけ無駄だろ。」
【たぶん、どこかのアンドロイドが通りを掃除してマークを描いたんだ。】
足がこわばり、歩みが鈍る。
「誰もいないはずだ。」
【彼らの縄張りかもしれない。】
男は短く息をつき、拳を握りしめる。
「最悪、感染者が一体くらいいるかもしれないが…なんとかなる。」
【無理だ、動けない。】
彼の瞳が潤む。
「はは…」
【怖いんだ。】
「いや、怖くなんかない…大丈夫、大丈夫…」
男は大げさに手を振り回し、その場でくるりと回転するが、周囲には誰もいない。
瓦礫に雑草が生えた通りは、相変わらず死体もなく静まり返っている。
男は銃を構えようとするが、わずかに震えている。
「……」
【絶対に、他国のアンドロイドだ。2年も経てば世界は変わる。帝国も滅んだ。】
「……」
【もし外に生存者がいたとして、お前を受け入れると思うか?】
「……」
【外の戦争が終わっているなんて、どう証明する? お前の感染の痕跡を見たら、即射殺かもしれないぞ?】
「黙れ!」
男は大声で叫び、足を止める。
何年も大声を出さなかったせいか、その声は耳障りなほど響く。
しかし通りに鳥の姿すらなく、坂道がゆるやかに下っているだけだ。
やがて男は再び歩き出す。うつむいたまま、遠方には濃い霧の中に巨大な壁の上部が見え隠れする。
【ほら、2年前に閉じ込められた検疫区域の端まで来たんだ。】
「…うるさい。」
【破壊されて穴だらけか、ロボットが守っていて撃たれるか…どっちがマシだ?】
男は鼻で息を吐き、視線を上げる。
通りの壁にはアレス神を象徴するマークが所々に描かれており、瓦礫の合間を歩きながらも彼の目を引く。
【負けたんだよ、俺たちは。戻れば生きていけるぞ。】
男は足を止める。思考のせいではなく、視界が開けて壁の根元が見える地点に来たからだ。
そこからは壁の向こう側も見渡せる。眩しい光があふれる世界が広がっていた。
【何だ…幻覚か?】
壁の先には、廃墟とは対照的に、巨大なビル群がそびえ立ち、雲に隠れるほどの高さを誇る。
無数のライトが点在し、人々が暮らしていることを示す。
男の足取りが速くなり、瞳に希望の光が差す。
シイッ
だが、すぐに足が止まる。壁の上から狙撃されたのか、弾が男の足元に着弾し、銃口を冷ますような音が聞こえる。
【ほら、やっぱり撃たれるぞ! 下がれ!】
男は銃を構え、撃ってきた存在を探す。
そこには、以前倒した敵と同じような青い金属製の胸当てを身に着けた女性――あるいはアンドロイド――がいた。
胸にはアテナではなくアレスの紋章が描かれている。
お互い、引き金を引くことなく対峙する。
【撃て…】
互いに動かず、状況を見定めている。
【撃て. 】
遠くの女性が小さな装置を取り出すが、男のスコープなしでは何なのか分からない。
【撃て!】
すると、彼女の声が壁の上から男に向かって響き渡る。増幅装置を使っていないはずなのに、その声量は人間離れしていた。
「検疫区の市民に告ぐ。直ちに武器を捨て、身元を申告せよ。さもなくば、検疫区域第239条に基づき射殺する。」
【撃てって言ってるだろ!】
男は銃を地面に置き、両手を挙げながら、枯れた声で叫ぶ。
「俺は…ソレダッド・スペルテス…市民で…!」
国籍を名乗ろうとした瞬間、女性の声が割り込み、壁の扉が重々しく開く音が響く。
「データベースと照合完了。前進を許可する。」
【罠だ、行くな!】
男の脳裏に警戒心がよぎるが、彼は同時に希望に駆られ、門の開いた通路へと急ぐ。
そこには小さなテントが設営され、似たような状況の人々が待機させられているようだ。
アレスの紋章を身につけたアンドロイドたちが男の進行を制止し、奥へ行かせない。
【今すぐ逃げろ!】
「止まれ。すぐにマスクを外せ。」
ソレダッドは小刻みに震えながら、ためらいなくマスクを外す。
そこには、首から目にかけて黒い静脈が走る顔があり、血走った瞳が印象的だった。
だが彼は微笑んでいる。強烈なストレスの中に、初めての温かな感覚が混じっているのだ。
誰かが銃を突きつけている状況でも、彼は無意識に笑みを浮かべていた。
【…もう一人じゃない!】
【バカなこと考えるな!】
【人がいる! 生きてる人がいる!】
テントの中には家具らしいものはほとんどなく、血痕があちこちに付着しているが、ソレダッドは気づかない。
白衣を着たアンドロイドが彼の前に立ち、無表情に検査を進める。
白衣のアンドロイドは冷静な声で、銃を構える兵士に向かって告げる。
「感染リスクはない。ウイルスはすでに破壊されており、表面の黒い痕はただの瘢痕か皮膚病だ。」
「了解。」
兵士は即座に銃を下ろし、ソレダッドに向かって無言で頷く。
「ついてこい。」
兵士が振り返ろうとしたとき、白衣のアンドロイドは軽く頷いて合図を送り、
兵士がテントの布をめくると、ソレダッドの目に外の光景が飛び込んでくる。
「…まるで光の都だ。」
ソレダッドの脳裏に浮かんだのはそんな表現だった。
目の前には、巨大な高層ビル群が立ち並び、雲にまで届きそうなほどの高さを誇る。
無数の広告がビルの壁を彩り、昼間だというのに窓から漏れる光や巨大スクリーンの映像が眩しい。
彼の目から涙がこぼれ、笑みが零れる。
「ようこそ、アレス独裁領へ。」
兵士の声が耳に届く。
視線を巡らせると、そこには多くの人間やアンドロイドが、まるで平和そのもののように行き交い、
食料や日用品を買い込んでいる。
彼には何も欠けていない楽園のように見えた。
「すごい…こんなにも豊かになってるなんて…どうして…」
ソレダッドは呆然と立ち尽くす。
荒廃した廃墟での孤独とは比べ物にならない、溢れる活気に目を奪われる。
次の瞬間、彼の首筋に激しい衝撃が走り、意識が遠のく。
「…路地裏で頑張れよ。」
兵士の声を最後に、ソレダッドの世界は闇に包まれた。
目を覚ますと、そこには汚れた路地があり、湿気と尿の臭いが漂う。
ボロボロの服を着た人々がうずくまり、彼の装備のままの体は痛みに耐えきれず倒れ込む。
【言っただろ…】
- 終
こんにちは! 今回はほかの章より少し長めですが、この短編の締めくくりとなります。
この暗い世界観を私自身が書くのを楽しんだのと同じくらい、皆さんにも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
最後まで読んでくださったこと、本当に感謝しています!
もしこの世界観にもっと触れてみたい方がいらっしゃれば、私のメイン小説『The Fallen Hero, un monde bâtis sur des cendres (灰の上に築かれた世界)』をぜひご覧ください。
実はこの短編は、あの世界で起こる出来事の前日譚(というか、サイドストーリー的なもの)として書かれたものなんです。
「アレス独裁領」がどのように機能しているのか知りたい方は、『The Fallen Hero』で少し謎が解けるかもしれません。
改めて、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
皆さんにとって、この物語が少しでも心に残るものになっていれば幸いです。
それでは、よい一日、もしくはよい夜をお過ごしください。
興味のある方は、ぜひ私の小説『The Fallen Hero』でもお会いしましょう!
(ちなみに、第2章で主人公が読んでいた「廃墟をさまよう二人の少女の物語」は、漫画『少女終末旅行』のことです。とても素晴らしい作品なので、ぜひ読んでみてください。アニメ化もされていますよ。)
(ここからは、この短編の制作時に浮かんでは消えたアイデアについて少しお話ししますね:
当初は、ゾンビがはびこる世界で孤独な生存者を描く作品にしようかと考えていました。
でも、ゾンビものを書くのは自分の中でピンと来なかったんです。
その後、「黙示録の後の世界」という設定にしようとしたものの、なかなか筆が進まず……。
最終的には「統一戦争」直後の世界、つまり本編小説の世界観に、この短編を組み込むことにしました。
戦争による廃墟や化学・核兵器の影響など、私が書きたい要素がすべて揃っていたので、
結果的にこういう形の『Quarantaine écarlate』が生まれました。
個人的には、最初のゾンビ案よりもずっと気に入っています!)
改めて感謝申し上げます。