地元のウワサ
ひゃー、涼しいー。
駅前の繁華街。半地下にある飲み屋に入るなり、一人の青年がそう声を上げた。
パタパタとシャツの胸元を扇ぎ、店内の冷えた空気を取り込もうとしている。
「やっとこ、ありつけましたね」
「ホントにな」
「何処でもイイって言ってるのに、なんでどこも断るのやら」
ドヤドヤと店に入ってきた三人が、口々に文句をいう。
涼を取っていた青年が、その言葉に「もっと良い店があるかと思って」と悪びれもなく答えた。
「まぁ、いいっすよ。さっさと座りましょ?」
一番の年下らしい青年の一言で、彼らは案内されるまま席に座る。
店は半地下であったが、意外にも店内は広かった。
座敷や個室はなく、カウンター席と卓が並べられているだけの店である。
壁にはダーツの的が掛けられていた。
「いやー、やっと座れました」
「スギまでそんな事言うなよ」
「コモリ先輩がさっさと店決めないからですよー」
「ほんとにな」
話していた二人へ、おしぼりで手を拭いていたミヤケという青年が、淡々とした口調で呟いた。
コモリはミヤケへ不満そうな視線を向けるが、彼は平気そうな顔をしたまま、おしぼりを畳む。
「なんか食う?」
「いや、俺はいいっすよ」
「まだ若いんだから」
「一つ違いじゃないですか」
メニューを広げていたマキという青年が、スギへメニューを指し示しながら言った。
既に飲み会は三軒目に突入している。
一軒目で腹を満たしていたスギは、苦笑を浮かべながら断った。
マキはそうかと真顔で返すと、手を挙げて店員を呼ぶ。
「わっ、まだ決めてねえよ」
「早いって」
「ハイボール、四つで」
騒ぐ二人を置いて、マキは注文を伝えた。
勝手に決められた形ではあったが、無難なものではあったので、二人は渋々口を噤んだ。
そんな姿を苦笑を浮かべながら眺めていたスギは、壁に貼られたポスターに目を留めた。
古びたポスターで、何時の物か分からない怪談系の座談会が宣伝されている。
「そういえば、ウチの地元、ああいう噂ないっすよねー」
ポスターを指さしながらの一言に、他の三人は顔を合わせる。
出身校と地区の違う四人は、会社に入ってから知り合った関係ではあるが、地元という点では同じ四人であった。
彼らがよくつるんでいるのも、こうして遅くまで飲み会を開いているのも、この地元が同じという理由からだった。
「そういえば、そうだな」
ミヤケの言葉に、三人はうんうんと頷く。
心霊スポットと呼ばれるものはあるが、その殆どがただの廃墟であり、ただの噂でしかないものが殆どだった。
学校にありがちな七不思議や怪談も、四人の通う学校には珍しく一つもなかった。
決して小さくはない規模の都市ではあったが、四人はそれらしい噂を聞いたことはなかった。
「なんかつまんないッスよねー。俺そういうの好きなんだけどなぁ」
頼んだハイボールを傾けながら、スギはつまんないと文句を零す。
「いや、あるよ〜」
そんな言葉が、隣からかけられる。
四人が向けた視線の先には、三人の女性がいた。
年頃は同じぐらいか、少し上だろうか。
社会人らしい大人っぽい女性達で、ニヤニヤと笑いながら四人を見ていた。
「……知り合い?」
「知らね」
「……逆ナン?」
「……ワンチャン?」
そんな会話をコモリとミヤケが繰り広げている間に、スギは女性達へ問いかけていた。
「マジすか!?」
「ええ、私達の世代だから今は分からないけど、飛猿ビルの清掃バイトは出るって言われてたのよ」
「飛猿ビルっていうと……」
そう言いながら彼が思い浮かべたのは、この繁華街にある怪しげなビルだった。
そうは言っても、実態はただの所謂風俗ビルである。
ほぼ別館のような造りになっている一階には、この繁華街では珍しくポツンとソープが入っていて、全階の殆どがキャバクラやガールズバー等、ピンク色のネオンが似合う店ばかり入っているというビルだった。
「えーと……」
「あはは、いいよいいよ。私達も分かって言ってるから」
口淀むスギへ、女性の一人が朗らかに笑う。
「何がやばいんスカ?」
「ウワサだけどね? 深夜バイトで清掃のバイトがあるの。その時、やっぱり出るんだって」
「……例えば?」
具体的な話を聞こうと、身を乗り出さんばかりのスギへ、女性は梃子を外すように。
「それは、分かんない」
「えぇー」
「私も詳しくウワサを聞いたわけじゃないから」
「そうなんですか……」
肩を落とすスギは、ハイボールを口に運びながら考える。
これも、またデタラメな噂かなぁと。
そんな矢先に、今度はカウンターから声をかけられる。
「ああ、それ。俺の時もあったよ」
声をかけてきたのは、カウンターで飲んでいた中年の集団だった。
男女入り乱れた集団で、スーツ等を着込んでいることから、仕事終わりだとわかる。
「アレだろ? 飛猿ビルのやつだろ?」
「えぇ? オジサンの時からあったんですか?」
「あはは。まあなぁ、アソコは昔からあるから」
そう語る男性は、既に五十路に届きそうに見えた。
そうなると、かなり昔からあることになる。
「オジサン時は、どんな噂だったんスカ?」
「んー……まあ、概ね似たような噂だったなぁ」
「……あぁ」
スギが肩を落としかけた時だった。
「ただ、俺の時は旧館の話があった」
「旧館、ですか?」
新たな単語に、スギは肩を直す。
「ああ。なんでも、あのビルは昔からあったんだけど、その前は旅館だったか、旅籠屋だったかをしていたらしい」
「はぁ、旅籠屋」
「まあ、宿屋みたいなもんだよ」
男性の持つグラスが、カランと音を鳴らす。
「そこは木造だったらしいんだけど、何故かそれを壊さないで、増築するような形で今のビルになった」
「それは、変ですね」
「ああ。それで、その旧館の部屋ってのは、壊さなかったんじゃなくて、壊せなかったらしい」
「壊せなかった?」
「おう。なんでも、訳アリの客が来て、そこで死んだとか」
「訳アリ?」
「俺もそこまでは知らないんだよ。ただ――」
相当、無残な殺され方をしたらしい。
男性が語るには、その女性のせいで旧館自体に曰くが残ってしまい、そのせいで壊そうにも壊せない。
だから、それを覆い隠すような形で、今のビルが出来たそうだ。
「俺の時は、清掃中にもし木造の部屋に入ったら、すぐに出ないと祟られるというものだったな。特に呼ばれた場合は」
「呼ばれる?」
「ああ、たまにだが、呼ばれる奴がいるらしい。何時の間にか、木造の建物に足を踏み入れているんだと。その場合は、さっさと逃げてお祓いをしないと不幸が起きるとか」
「……へぇ〜」
曖昧な話から、もっと詳細な話になった。
もしかすると、これは本当のウワサなのかもしれない。
スギは興奮するような、けれど同時に恐怖に襲われているような、奇妙な感覚を覚えた。
「そういえば、飛猿ビルって隣だよな」
「え? マジ? ちょっ、怖いじゃん」
「ただのウワサだろ」
さっきまで聞いていた話の大元が、すぐ隣にあるという事実に、スギは少しだけ薄ら寒く感じる。
「でも、マジでただの噂だと思うけどな」
「そうかぁ?」
「だって、あそこに飲みに行った時もあるけど、そんな旧館があるような感じじゃなかったぜ? 心霊現象だって一つもなかったし」
「……確かにそうだな」
スギは酒を飲まない方だが、コモリとミヤケはかなりの大酒飲みだ。
今でこそ、コモリが結婚して年に数回になったが、以前は毎週と言っていい程に飲みに出かけていた。
当然、飛猿ビルにも何度も足を踏み入れていた。
その二人が、何も無かったと言っているのだ。
スギの頭に、再び信憑性の疑問が浮かんできた時、再び声がかけられる。
「いんやー、あの噂本当だよー」
声をかけてきたのは、遠くの卓に座る妙齢の女性だった。
隣には、姉妹だろうか。少し年下に見える女性が一人、同じ席についていた。
「ホントですか?」
「うんうん。私の時にもあったからねー」
「その時のウワサは?」
「まあ、概ね、さっきの男の人と同じだよー」
また同じ話かと、スギは思った。
こうなると、私の友達が体験したから、あの噂は本当だと語るパターンが殆どだ。
ハズレか、とも思った時だった。
「ただ、私の時は事件があったらしいんだよねー」
「事件、ですか?」
「うん。といっても、私の生まれる前だったらしいけど」
「どんな事件だったんですか?」
そうスギが問いかけた時だった。
隣に座るマキが、彼のグラスを手に取る。
「追加、注文しとくよ」
「あっ、すいません」
何時の間にか、彼のグラスが空になっていた。
話に熱中して、先輩に失礼を働いたかと、スギは申し訳無さそうに頭を下げる。
マキは気にするなと手を振ると、店員へ注文を告げる。
「いや、すみません。話の続きを」
「あいよー」
グラスを掲げながら陽気な返事をする女性を見て、スギはアレと思った。
腹が膨らんでいるのだ。
「あれ、妊婦さんだったんですか」
「お〜! そうだよ〜」
「おめでたっすねー」
「ありがとー」
しかし、そうなると、この陽気さも心配になる。
妊婦が酒を飲んでいいのだろうか。
そんな心配が顔に出ていたのか。
女性はグラスに頬を添えると「これ、ノンアルコールだから」とウインクをした。
「あ、あはは。そうですか」
「そうそうー。それで、なんだっけ?」
「ほら、ビルの事件ですよ」
「ああ、そうだったー」
えーとねー、と呟きながら考え込むと、女性はパッと顔を上げる。
「そうそう。殺人事件があったんだよ」
「えぇ?」
殺人事件となると、かなりの大事である。
「あのソープが、昔からあるのは知ってるよね?」
「え、まあ、はい」
「実は、私が生まれる前からあってね? その事件は、その店で起きたんだ」
「どんな事件だったんですか?」
「生まれたばかりの子供を、殺してたんだって」
ゾッとするとは、正にこのことだった。
スギは知らず知らず、鳥肌の浮かんだ腕を抱いていた。
「その女性は、とにかくお金に困ってたらしくてね? それもあって、まあ、お店に黙って副業を始めちゃったんだよ」
「……はい」
「まあ、所謂、本番っていうのかな。こっそりお金を取って、ヤラせてたんだって」
さっきまでの陽気さは何処にいったのか。
淡々とした口調で、女性は続ける。
「そんなことをしていればさ、いつかは問題になるんだけど、その人の場合は、病気になるよりも先に、デキちゃったらしいんだよ」
「……はい」
「身よりもないし、お金も無いから、どうにもならない。結局、なんとか誤魔化して、休みをとって産んだんだって」
「それは」
「まあ、私生児って……より酷いか。まあ、産んだはいいけど、その人はますます困った。育てる金もないし、仕事は休めない」
――そうすると、殺すしかない。
ゾットするような声で、女性は言う。
「君は、あの店に行ったことがある?」
「いや、ないです」
「あそこね。排水口が普通よりも大きくなっているんだよ」
「……まさか」
「そう。その人は、流しちゃったの」
酷い話だと、スギは思った。
同時に、本当の話なのかと、疑問がもたげてくる。
「まあ、それで、おかしくなっちゃったんだろうね」
「と、いうと?」
「その人、また同じこと繰り返したの」
「えっ?」
「どれだけ金に困ってたんだろうね? それは、わからないけど。結局、匂いと水道が詰ったことで、全部バレてしまったみたい」
「……なるほど」
「それで、その時だったらしいよ」
女性の言葉に、スギは首を傾げた。
話が衝撃的だった為か、思い当たらなかった。
女性はクスリと笑うと。
「木造が見つかったのが」
「……えぇ?」
「水道が詰まっている以上、探さなきゃいけないでしょ? それで、探してる最中に、見つけたらしいよ。木造の建物を」
「……つまり」
「うん。旧館は、本当に存在するってこと」
私が知っているのは、ここまでかなー。
女性はそう言うと、スギに背中を向けた。
頭を軽く下げ、スギは席へ戻る。
「……ちょくちょく聞こえてたけど、ヤベェな」
「……はい」
「でもあれ、ほんとにあったことか?」
「まあ、あれが本当なら、もっと有名だと思うけど」
三人の言葉に、それもそうだとスギは思う。
だか、それとは別に、薄気味悪いことは確かだった。
その後も、入れ代わり立ち代わり、声をかけられる。
それは似たような怪談話であったり、ビル周辺の歴史に関する話であったりしたが、その殆どが飛猿ビルに関することであった。
噂が出尽くしたのか、声もかけられる事が無くなった時だ。
「どうする? この後、飛猿ビル行ってみっか?」
不意に、コモリがそう言った。
「やだよ。ビビってるわけじゃないけど、流石に薄気味悪いし」
「それもそうだよなー。それに、終電で帰んなきゃだし」
「スギは?」
マキが、スギへ顔を向ける。
「行きたいなら、付き合うけど」
「独身組でいくなら、報告楽しみにしてるぜ」
「いや……」
肝試しがてらビルに行くことも考えていたが、スギはどうもその気になれなかった。
逡巡するスギへ、最初の女性がスマホ片手に声をかけてきた。
「きになるなら、バイトしてみれば? ほら、これ」
そう言って見せてきたのは、極々普通の求人サイトだった。
そこには、深夜の清掃バイトが載っていた。
「給料も悪くないし、どう?」
「いや……うち、副業禁止なんで」
そう言って、スギは断った。
女性は残念そうにしながら、席に戻っていく。
「すみません、ちょっとトイレ」
席から離れたかったせいか、唐突に尿意に襲われたスギは、そう言って席を立つ。
トイレに入り、小便器の前に立つ。
ふと、スギは腕時計に目を向けた。
時刻はもうすぐで、終電になる時間だった。
トイレから戻って、会計をすませば丁度いい時間だなと、スギはションベンを済ませながら思った。
そうしてトイレを済ませながらも、頭に浮かぶのは先程まで聞いていたウワサのことである。
不意にトイレの窓に目を向けた。
半地下のせいか高い位置にある窓は、トイレにも関わらず擦りガラスではない。
そういえばと、この窓の先は飛猿ビルではないかと、スギは唐突に思い出す。
以前はただの風俗ビルにしか見えなかったのに、今では得体のしれない何かにしか見えなかった。
スギは視線を切ると、手洗い場へと駆け足で向かう。
手を洗いながら、嫌なことを思い出していた。
話の中に、旅籠屋の時の地形についての話があった。
元々、地盤が弱い地域だったのもあり、区画整理の際に地板を底上げしたというものだった。
この話を語った、男性の顔が思い浮かぶ。
――昔は、もう一つ低い所にあったんだよ。
――そうだなぁ。今でいうと。
――ちょうど、この店くらいかな。
木造の旧館は、この店と同じ高さにある。
そして、この窓の向こうは、飛猿ビルなのだ。
下手をすれば、すぐ隣に。
逃げるように、スギはトイレを飛び出した。
そのまま、急いで卓へ向かう。
なんだなんだと、三人は驚いたような視線をスギへ向けていた。
彼は無理やり笑うと。
「コモリ先輩、もう終電近いっすよ」
「えっ? おぁ、マジじゃん!」
「ほんとだ。すみませーん! かいけーい!」
慌ただしくも会計を済まし、四人は店の出口へ向かう。
「あっ、さっきの子」
「……ああ、さっきはありがとうございました」
呼び止めたのは、事件の話をした女性だった。
「もしまた会ったら、今度は一緒に飲もうね」
「ええ、その時は」
曖昧な笑みを返し、スギは出口へ向かう。
そのすがら、同卓の女性に目がいった。
その女性も、妊婦だった。
「さっさと帰りましょう」
「なんだよ、何焦ってるん?」
「いや、用事あったこと思い出して」
「あー、お前も終電で帰んなきゃなのか」
店から一刻も早く離れるように、スギは足を進める。
駅から程近い所まで来た時、横から声をかけられる。
「お兄さんたち、どうすか?」
キャッチの男だった。
終電が近いこともあり、あしらうように答えるが、男は食い下がってくる。
「どこで飲んだんすか?」
「ほら、飛猿ビルの隣の店だよ」
「隣り、すか?」
「ほら! あの半地下の!」
その言葉で合点がいったのか、男はあっという表情を浮かべる。
だが次の瞬間には、怪訝そうな顔をしていた。
「あそこ、大分前から立ち入り禁止すけど」
§
「ひゃー、なかなか怖いっすね」
「だろ?」
ある会社の倉庫で、二人の青年が話していた。
緑色のパイプで出来た丸椅子に腰掛け、愉快そうに笑い合っている。
「にしても、飛猿ビルって、飲み屋街にあるアレっすよね?」
「おう。あのボロいのな」
「あそこ、そんなやばいんスカ?」
「うーん、ウワサは聞くけど、実際どうなのかは知らねえなぁ」
壮年の男が、顎に手を当てながら答えた。
「そもそも、もう壊すって話だけど」
「そうなんすか? でも、まだ店バンバン入ってますよね?」
「まあな? そもそも、壊すってのも、もう十年前から言ってたような気もするし……」
「あぁー利権ってやつすかね? もしくは、反対とか」
まだ年若い青年が、そう言いながら足をぶらぶらと振る。
「ていうか、これ誰の話なんですか?」
「んー? えーとな、確か……ナカヤマさんの元同期が聞いたとかだから――」
「先ず、ナカヤマさんが分かんないんですけど」
「あー、お前が来る前に辞めちまったからな」
うちも、入れ替わり激しいから。
壮年の男は溜息混じりに溢すと、膝を叩きながら席を立った。
「ま、煙草吸おうぜ」
「うーす」
二人はそのまま、外の喫煙所へ向かう。
「そういえば」
道すがら、ポケットからタバコを取り出しながら男へ訊ねる。
「あれ、ホントなんですかね?」
「さぁなぁ――」
――ただの、噂だからなぁ