ラム酒の瓶のある静物
都内のある美術館が来年の一月まで開いているキュビズム展には、雨の日曜日なのに、あるいは雨の日曜日だからこそ、杖を付き唾の付いた帽子を被ったいかにも絵画マニアといった容貌の老人から、今日初めて互いの私服姿を見た、まだ相手に目も合わせられない初々しい高校生のカップルまで、様々な人達が訪れて、こちらをじっと粘っこく眺めたりさっと流すように一瞥したりしていた。しかし自分にはそんなにずっと眺めるのに堪える魅力はないし、だからと言って遠くの風景のようにぼんやり視線を横切らせるほどこの空間に馴染んでいるとも思えないから、あるいは自分ではなくて隣にかかっている静物画を見ているのかもしれない。木製のテーブルに白いテーブルクロスが無造作に、いや無造作にかけたらここまで複雑に折り畳まれないだろうからむしろ作為的にかけられて、その上には様々な野菜と果物、そしてラム酒一瓶が置かれている。額縁の右には白い長方形のパネルが貼り付けられていて、その上に「ラム酒の瓶のある静物」と書かれている。「すみません。」と声をかけられて振り返る。「トイレはどこにありますか?」「こちらの階段を下ってすぐのところにございます。」二人で階段を下りて行くと確かにトイレがあった。「じゃあここで待ってるから。」きっと向こうのほうが遅いだろう。「うん。」大便をするつもりはないけれど個室に入る。やはり大便をするつもりはないけれど便器の蓋を上げてその上に座る。ふうっと自然にため息が出た。初デートって緊張するな。初めての初デートだけれど。適当に時間を過ぎさせて一応水を流して個室を出る。手も一応洗って、前の鏡で髪型を確認する。まあこのくらいかな。トイレを出ると向こうはもう既に待っていた。「待たせちゃってごめんね。」「ううん、そういうものでしょう。」階段を上り展示室に戻ってさっきのスタッフのお姉さんに会釈をする。素敵なピアスだなと思う。綺麗に膨らんだ耳たぶからミニチュアの額縁が垂れ下がり、その内側の絵には様々な果物と何か酒の瓶のようなものが描かれている。小さくてよくわからないけれど何となく既視感がある。若い女性をじろじろ見るのはと思って目を逸らすとすぐにその既視感の正体がわかった。ついさっき通ってきたところに彼女が着けているのと同じ絵があったのだ。やっぱり頭が悪くなっているかもしれない。絵の横を見ると、題名は「ラム酒の瓶のある静物」。すぐ下に書かれた解説が言うには、「中央に配置されたテーブルは斜め上から俯瞰して描かれていますが、その上に置かれたラム酒の瓶は真横からの視点で描かれています。セザンヌは一つの絵の中に複数の視点を取り込み、単一の見方にとらわれない、広がりのある美しい世界を構成しようとしました。」言われてみれば確かにそう見える。直感だったけれどなかなか良いものかもしれない。ふと腕時計を見ると二時を過ぎている。休憩の時間。扉を小さくノックして中に入る。「お疲れ様です。」「お疲れ。休憩?」「そう。」部屋には二人しかいない。たまに同じになるけれど、ろくに話したこともないからちょっと話しかけてみようかなとか考えていると、「今日結構いるね。」と向こうから言ってきた。「本当。こっち一人しかいなかった。」「そうなんだ。」しばらく気まずい沈黙があった後、勇気を出して隣に座った。腕が触れ合うのを感じる。触れるか触れないかの境目のところで自分の位置を調整する。次に行こうとして体が離れた。また止まって腕が触れ合う。相手の手を握ってみる。握り返されるのを感じる。ほとんど人がいなくなっていて、余計に鼓動が速まっていく。向こうの客はこちらを見ていない。手を肌にあてた。反応しているように感じたが、「触れないでください」の文字が見えて反射的に手を引いてしまう。横を向くとさっきのラム酒の瓶の静物があった。そちらに向かって、手を伸ばす。自分の手の中で額縁がちゃらちゃらと音を立てる。その流れで耳たぶを押してみると、乾いた絵の具の隆起を感じる。手を離して顔を近づける。肌の細かいところまで見える。相手が目を閉じる。もうこんなところまで行っていいのか少し戸惑う。相手の口から漏れた息が鼻にかかる。かすかに酸っぱいような匂いを嗅ぐ。より深い匂いを求めて鼻を近づけると、外でガシャンと音がした。二人は慌てて様子を見に行き、赤紫のカーペットが敷かれた床に割れた瓶が散らばっているのを発見した。微かに甘い匂いの残るその瓶の破片を、一人の老人と高校生のカップル、そして美術館のスタッフ二人が綺麗な正五角形を作って囲んでいた。