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ジゴロ探偵の甘美な嘘〜短編集1 魔法使いの赤い薔薇〜  作者: 涼森巳王(東堂薫)
第二話 異国の花
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異国の花



 あの花が咲くと思いだす。

 今も忘れない。

 あの人のことを。



 *



 窓の外が、いちめん白い。

 女侯爵ジョスリーヌの郊外の別荘だ。こぢんまりとした邸宅の周囲はクルスミ畑。花の盛りだ。


 この花を見ると、ワレスは思いだす。


 ワレスは一時期、この屋敷で暮らしていたことがあった。

 まだ十代の後半で、大ケガをして、ジョスリーヌにひろわれたばかりのころ。ケガの療養のためにつれてこられた。


 あのときも、クルスミの花の季節だった。


 クルスミは木の実をひいて粉にし、パンにする。近ごろでは麦も北方の国から入ってきたが、クルスミのほうが舌ざわりがなめらかで、ほのかに甘い。

 ユイラ人好みなのだ。

 だから、いまだに郊外では、広大なクルスミ畑が広がっている。


 毎日、ケンカをして、すさんでいた、あのころ。

 とても大切な人を失い、その喪失感に、もがき苦しんでいた。

 だが、心とは裏腹に、体は生命力にあふれていた。いやになるほど順調に回復していった。

 歩けるようになると、ワレスは一人で庭を散策した。庭から続くクルスミ畑へもよく行った。


 おれは、また死ねなかったのか。

 どうしても、おまえのところへは行けないんだな。


 思うのは、いつも、逝ってしまった人のことばかり。

 花は満開なのに、涙が止まらない。

 そんなときだった。

 ワレスがその娘に出会ったのは。


 どこからか罵声が聞こえてきた。


「このグズ! 何度、言えばわかるんだい? おまえは何やらせても不器用だね!」


 畑の小作人のようだ。

 数人の女にかこまれて、娘が一人、うなだれている。


 それは異国の娘だった。

 港あたりでは、外国船の船乗りを見たこともある。南の六海州の男や、砂漠の国ブラゴールの男。

 だが、その娘は、六海州やブラゴール人とも、どこか違う。きゃしゃだし、顔立ちがまったく異なるのだ。


 しばらく見ていると、女たちは罵るのにも飽きたのか、散り散りに去っていった。

 あとに一人残った娘は、何事もなかったかのように、クルスミの花の剪定せんていを始める。

 なんだか、こたえたようすがない。あるいは言葉が通じていないのかもしれないなと、そのときは思った。


 夜になって、ワレスは骨折したところの痛みで目がさめた。骨はすでにつながったが、ときおり、まだ痛む。


 いやに月光が明るい。

 ワレスは窓をあけて、テラスへ出てみた。クルスミ畑が月光に青白く輝き、怖いくらいキレイだ。


 ワレスの生まれた地方は、大理石の石切場が近かったため、町の男のほとんどは石切場で働いていた。こんなに広いクルスミ畑を見るのは初めてだ。


 誘われるように、白い花の森のなかへと入っていった。すると、花盛りのクルスミ畑のなかでも、ひときわ美しい花を咲かせる巨木のもとに、人が立っていた。


 長い黒髪の女。

 あの娘だ。昼間、見た、異国の娘。

 幹に手をあて、なにごとか、ささやいている。

 月光のなかで、その姿は人とは思えないような空気をまとっていた。

 瞬間、目をうばわれた。


 ワレスが話しかけようとしたときには、娘は風のように逃げだしていた。あまりにすばやいので、じつは娘はこの世の人ではなく、死者の霊なのではないかと、あやぶんだ。


 あんなところで、何をしていたのだろう?


 ワレスは気になって、その巨木のもとに歩みよった。ぐるりと一周すると、うろを見つけた。

 手を入れてみると、封筒が一つ入っていた。

 恋文だろうか?

 誰かとの秘密のやりとりをしているのか。


 悪いとは思ったが、ワレスはなかをのぞいてみた。

 封はされていなかった。

 異国の文字がならんでいる。アルファベットではない。皇都の騎士学校で第三外国語まで学んだワレスでも、これは読めなかった。

 読めないことがシャクで、手紙をふところに失敬した。読めるようになるまで拝借しておくつもりだった。暗号解読のような気分だ。


 翌日から、ワレスは書斎にひきこもった。どこかに、あの手紙を読むための手がかりになるような書物がないかと考えた。

 辞書があれば一番だったのだが、よほど辺境の異国の言語に違いない。辞書は書斎じゅう探しまわっても見つけることができなかった。それに似た言語の本すら見あたらなかった。


 ワレスは負けず嫌いなので、こうなると意地でも解読したくなる。

 屋敷のなかをむやみやたらに歩きまわっていたとき、厨房の勝手口の近くで、変な本を見つけた。

 日記のようだ。パラパラとめくって、がくぜんとする。あの手紙と同じ文字がならんでいるのだ。しかも、二種類の違う言語で書かれている。

 つまり、解読不能のあの文字と、ユイラ語がならんでいるのだ。


 家計簿といっしょに置かれていたその日記を、ワレスは拝借した。

 手癖が悪いのは育ちのせいだ。盗るわけじゃない。あとで返しておけばいい。


 というわけで、謎の日記を見つけたワレスは、暗号解読に夢中だ。


 日記じたいは、船乗りの航海日誌だった。何年何月何日にユイラの港を出て、南へ向かう——といったような内容が記されている。

 内容にも興味があったが、とりあえず暗号の法則を見つけ、単語の意味するものを解読していく。


 それによると、こうだ。



“火の月末日、闇四刻までにたる二。返しに麦二袋。小屋にて待つ。”



 意味不明だ。

 しかし、どうも犯罪の匂いがする。


(小屋にて待つ? つまり、誰かとの待ちあわせの約束だな。火の月の末日だって?)


 マズイ。今日だ。


 ワレスはあわてて、朝のうちに、手紙をもとどおり木のうろに入れておいた。

 そして、その日はさりげなく、書斎の窓から、クルスミ畑を見張っていた。書斎は屋敷の三階にあり、クルスミ畑が一望できる。見張りをするには最適だ。


 一日、見張っていても、怪しい人物は出入りしなかった。畑で働く女たちが入っていき、夕方にまた出ていっただけだ。

 そのなかには、あの異国の娘もいる。

 やはり、あの娘が書いた手紙なのだろうか?

 だとすると、誰にあてて?


 どうも気になる。とくに、樽二、返しに麦二袋というあたりだ。これは何かを渡すかわりに代償をくれという意味ではないのか?


 ワレスは一階へおり、庭へ出た。散歩のふりをして、娘のようすをさぐってみようと思った。


 畑の出入り口から、女たちが、ぞろぞろと出てくる。しかし、娘はまた農婦頭の女に罵られていた。


「なんだい。これだけ? 一日かけて、これだけしかできなかったのかい? このグズ!」

「でも、それは、途中で肥料を運べって言われたから……」


 おどろいた。

 娘はちゃんとユイラ語をしゃべっている。


 農婦頭は口答えされて、なおさらカッとなったようだ。平手をふりあげようとする。

 ワレスはその手をつかんでひきとめた。


「仕事が終わったなら、さっさと帰ってはどうだ?」


 ワレスは屋敷の女主人の大切な客だ。女たちはバツの悪そうな顔になって、そそくさと去っていった。


「ユイラ人ってやつは、世界で自分たちが一番すぐれた民族だと思ってるからな。異国人には、あたりがキツイ。おまえ、名前は?」

「……ハナです」


 航海日誌をひたすら思いだし、意味を解する。

らーなか。女神の名だな」


 ユイラでは春の女神の名前だ。

 娘は、しかし、警戒したように頭をさげて逃げていった。ワレスは肩をすくめる。


 そういえば、あの航海日誌に、“ハナ”の記述があったような?


 ワレスは自室に帰り、航海日誌を読んだ。やっぱり、そうだ。

 船乗りはユイラでは冒険家として知られた貴族だったらしい。航海途中で遭難船に出会い、女の子を助けている。その女の子の名前が、ハナだ。


 じゃあ、あの娘は遭難者だったんだな。

 しかし、その子は船乗りにひきとられ、育てられることになったはずだ。なぜ、今になって小作人なんてしてるのだろうか?


 それ以上は航海日誌には書かれていない。あとはちょくせつ娘から聞いてみるしかない。


 だが、その夜、ジョスリーヌが皇都からやってきて、ワレスはそれどころではなくなった。


 急に女主人が来たので、家令のユングルトも、奥女中たちも大わらわだ。いやにアタフタしている。


 ジョスリーヌはワレスを見たとたん、変な歓声をあげた。


「まあっ! おどろいた。すっかり治ったのね!」

「…………」


 どうせ、死ぬと思っていたのだろう。それはひどいケガだったから。哀れんでみたものの、生きるとわかると、やっかいになったのかもしれない。


「礼は言わない。おれを助けたのは、あんたの勝手だ」


 すると、さらにおどろいた顔をしてから、ジョスリーヌは笑いだした。


「おもしろい子。気に入ったわ。ステキな青い目じゃない」


 ワレスは瞬時にジョスリーヌの意図をくみとった。

 まあ、それならそれでいい。

 行くあてはないのだから、しばらく、貴婦人の退屈しのぎの相手になってやろう。


 そうして、ワレスはジゴロになった。



 *



 ジョスリーヌは悪い後見人じゃなかった。気前もいいし、気まぐれだが、残酷ではない。


 ワレスの体力が完全にもどるまで、今しばらく別荘に滞在することになった。


「何か欲しいものはある?」と聞かれ、ワレスは答えた。

「ものじゃないが、おれに専用の小間使いをつけてくれ。ハナという異国人の農婦がいるんだ。おとなしそうだから、あの娘がいい」


「あら、あの子に興味があるの?」

「めずらしいからな。どこの国の娘なんだ?」

「さあ。あの子は、ほかの召使いといっしょよ。この屋敷ごと買いとったの。だから、一人一人のことはよく知らない」


「屋敷ごと?」

「もとの持ちぬしは、自分の船で航海中に亡くなってしまったの。ばくだいな借金をかかえて、遺族は屋敷を売るしかなかったそうよ」


「遺族というのは?」

「息子が一人いたらしいわ。わたしは代理人にすべて任せていたから、会ったことないんだけど。わたしがここを買った十年前に、今のあなたくらいの年齢だったんじゃないかしら」

「ふうん」


 そういうわけで、ハナは今日から、ワレス付きの小間使いだ。


「……先日は、ありがとうございました」

 うつむいて緊張しているハナには、以前、ワレスが惹かれた神秘的な美しさはない。


「遭難者だそうだな。子どものころに、以前のこの屋敷の主人に助けられ、育てられた」

「……はい。実の親は海難事故で死んだそうです。わたしにとって、アルビドス男爵は、ほんとの親のようなかたでした。わたしは実の親も、育ての親も、海で亡くしたんです」


 不運な娘。

 実の親の顔はおぼえているのだろうか?

 育ての親が死んだとき、自身の不幸に絶望しなかったのか?


 たよる者は一人もいない。

 世界中で、たった一人。


 そのさみしさを、ワレスも知っている。


「アルビドス男爵には息子がいたそうだな。今なら二十六、七になっているだろう。おまえのことは置いていったのか」


 ハナはだまりこんだ。


「どうした?」


 かさねて、たずねる。

 ハナはキッと、ワレスをにらむ。だが、涙目だ。


「ディルトさまは必ず帰ってこられます!」


 叫んで、部屋をとびだしていった。


 女を泣かせてしまった。

 泣かせるつもりのなかった女だ。

 これは、ズルイ。涙がつきささる。


 ワレスはため息をついて、ソファに自堕落に寝ころがる。


 育ての親の息子ということは、ハナにとっては兄妹同然。兄と慕っていた相手にすてられたのだ。ふれるべきではなかった。


 だが、ハナが暗号のような手紙を送る相手と言えば、いっしょに育った義兄妹くらいしかいないはずだ。


 親の死によって、とつぜん失ってしまった家屋敷。とりもどしたいのが人情ではないだろうか?


 ディルトにだまされて、ハナが妙なことを企んでいなければいいのだが。



 *



 夜になって、ワレスは目がさめた。

 窓の外を見ると人影が歩いていく。

 うしろ姿だけでも、ハナだとわかった。


 ワレスはベッドをぬけだして、そっと、あとをつけた。


 ハナは暗がりのなかでも迷わず歩いていく。方向からわかっていたが、やはり思ったとおりだ。あの巨木のもとへ来た。


 ハナは以前の夜と同様に、木に向かって話しかけている。だが、うろを使って手紙のやりとりをするそぶりは見られない。


「何をしてるんだ?」

 思いきって話しかけてみた。


 ハナはバツの悪そうな顔をしたが、今度は逃げなかった。


「この木の下で、ディルトは言いました。お金をためて、必ず、わたしを迎えに来るって」

「十年も前だろう?」

「ディルトはウソなんてつきません。わたしたち、約束したんです。大人になったら結婚するって」


 ああ、なんてバカな女だろう。

 そんなの男の常套句じゃないか。

 いつか必ず迎えにくるだなんて、男がジャマになった女に言う別れのセリフだ。


 でも、この娘はその言葉を信じて、待ち続けているのだ。ほかに行くあてもないから。世界中で、ひとりぼっちだから。その言葉だけが、ただひとつの心のよりどころ……。


 一瞬、思った。

 おれといっしょに行かないかと。


 だが、口から出たのは、

「ああ。帰ってくるといいな」


 平凡な、なぐさめの言葉。


 ワレスは木のうろをさぐった。

 また、封筒が入っている。

 この前とはなかみが違っていた。


「これは、おまえがディルトにあてた手紙か?」


 ワレスが手紙をさしつけると、ハナは首をかしげた。


「いいえ。わたしじゃありません。でも、漢字ですね。この字を書けるのは、わたしとディルトさま、亡くなった男爵さまだけです」


 だとしたら、手紙はディルトが書いたことになる。


「ほんとに?」

「たぶん。でも、男爵さまが書かれていた日記を清書していた人がいるようです」

「それが誰か知っているか?」


 ハナは首をふった。

 ワレスは手紙の内容をたしかめる。


「羊が牧場に入った。しばし延期——か」


 この意味はなんとなくわかった。羊はジョスリーヌのことだ。女主人がやってきたので、今は事を起こさない。そういう意味だろう。



 *



 翌朝。

 そんなことがあったので、ワレスは寝不足だった。昼まで、だらだらベッドのなかですごしていると、窓の外で、知らない男と話しているハナの姿が見えた。


 ようすが普通でない。


 ワレスは急いでベッドをとびおきた。近づいていくと、二人の話し声が聞こえた。


「そんな! ほんとに? ディルトさまが……」

「この前の嵐で船が沈んで、乗組員は全員、絶望的だそうだ。だから言ったんだ。お父さまのお命をうばった海になんぞ、出るもんじゃねえと」

「ウソ……ディルトが……」


 それは、ディルトの死の知らせだった。以前、屋敷で働いていた老人が、ディルトの乗った貿易船が沈んだという知らせを持ってきたのだ。


 ハナはふらふらして、今にも倒れそうだ。

 なので、ワレスが部屋につれ帰った。ワレスの小間使いになったので、となりの部屋に、ハナのひかえの間がある。ハナをベッドに寝かせ、ワレスは台所に水をもらいに行った。その途中、使用人部屋の近くで、ひそひそと言いかわす声を聞いた。


「ディルトさまが亡くなったって。よかったな。これで、あのことを知る人間がいなくなった」

「しッ。誰が聞いてるかわからないよ」


 部屋をのぞいてみたが、すでに庭へ出ていったのか、誰の姿も見あたらない。


 さらに、水差しとグラスを持って、ワレスがハナの部屋の前までもどったとき、ブツブツ言いながら歩いてくるジョスリーヌに出会った。


「変ねぇ。なんで見つからないのかしら? たしか、この別荘にあったはずなんだけど……」


 ワレスにも気づかないほど考えこんでいる。


「何か探しているのか?」

 声をかけると、


「あら、ワレス。息子にあげようと思っていた宝剣が見つからなくて。飾り用だから、かまわないんだけど」という答えが返ってくる。


 この屋敷には、いろいろと問題が多いようだ。


「ジョスリーヌ。ちょっと見せてもらいたいものがある」

「あら、何?」

「この屋敷の帳簿だ。誰が管理している?」

「もちろん、家令のユングルトよ」


「なるほど。ところで、この近くに小屋と呼べる場所はあるか?」

「狩り小屋のことかしら?」

「了解」

「何が“了解”なの?」


「あんた、おもしろいことが好きなんだろう? だったら、見せてやるよ。ただし、あんたは今すぐ皇都へ帰ること」

「ワレス。あなたって、ほんとに変わってるわ」

「褒め言葉なんだろ?」

「そうね」


 夕方になって、ジョスリーヌは馬車で屋敷を出ていった。ワレスだけを残して。


 そして、夜が来た。



 *



 クルスミ畑の外は自然の森だ。

 森のなかの狩り小屋に近づいてくる足音がある。ガラの悪そうなのが二、三人。


「おい。だんな。来てるのかい? 羊がいるから、とうぶん休むんじゃなかったのかよ?」


 それに答える声は、きっと彼らの想像していた人物のものではなかった。


「羊は港に使者を向かわせるために、いったん帰ったんだ」

「港? なんでまた?」

「人を探させるために」

「誰を? それより、あんた、ほんとに《《だんな》》かい? なんかこう、いつもと感じが……」


 黒くシルエットになった相手の顔を見て、男は「あッ」と声をあげた。


 だが、そのときには、すでに遅く——



 *



 数日後。

 ふたたび、ジョスリーヌが屋敷にもどってきた。


「ワレス。帰ってきたわよ! 早くおもしろいものを見せて!」


 興奮しているのをなだめて、まずは、ユングルトを呼びだす。

 場所はサロン。室内には、ハナもいる。


「お呼びでしょうか? 侯爵さま」


 神妙にうかがいをたてる家令に、ワレスは切り口上を述べる。


「単刀直入に言う。あんたはクビだ。ユングルト。なんなら窃盗の罪で牢獄にぶちこんでもいい」

「はあ?」


「証拠はあがってるんだ。帳簿を調べたろ? おれがアルベルト男爵の航海日誌をひろったとき、いっしょに置いてあったのは、この屋敷の家計簿だった。先日、あんたが、おれに見せてくれたやつだよ。つまり、男爵の航海日誌を持ち歩いてたのは、あんたなんだ」


「それは……以前のご主人がおなつかしくて……」

「なつかしくて読んでたのか?」

「はい。さようです」


「そう。あんたは漢字が読めるんだよな? あんたは男爵の航海日誌を清書してたから」

「それが、何か?」


 ワレスはふところから、例の暗号文を出した。


「これは、あんたが書いたものだ。内容はこの屋敷から盗んだ宝物を、悪徳商人に売り払うときの待ちあわせだな。ああ、言いわけは、もういいんだ。商人のほうは捕まえて、全部、吐かせてあるから」


 ワレスが合図すると、ジョスリーヌの兵士たちが数人の男をつれてくる。

 ユングルトは《《ぐう》》の音も出ない。


「あんたは、この屋敷がアルビドス男爵のものだったころから、同じことをくりかえしていたんだろ? 息子のディルトだけは、薄々、そのことに勘づいていた。だから、ディルトと親しかったハナを冷遇したんだ」


 ジョスリーヌが毅然きぜんと言いはなつ。

「あなたはクビです。ユングルト」


 ユングルトは商人たちとともに兵士につれられていった。


「でも、そうなると、この屋敷には新しい家令が必要になるな。そうだろ? ジョスリーヌ」

「ええ。そうね」


 ワレスはハナをながめた。

 たった一人で、愛する人を待ち続けた娘。


 ワレスも一人だから、惹かれた。足りないものを補おうとするように。でも、それは、きっと、ほんとうの愛じゃない。


「ハナ。おまえが家令になってくれ。この屋敷で、ディルトの帰りを待ち続けるんだろう?」


 ハナはとまどっている。


「でも、ディルトは……」

「信じてるんだろ? 必ず帰ってくると。なら、ディルトは、きっと生きてる」


 ハナの目に涙が浮かんだ。

「そう……そうね。わたし、信じます」


 おろかだけれど、美しい。

 それは真実の愛だから。



 *



 今でも、クルスミの花の咲くころには思いだす。

 あのときの、ハナの笑顔を。

 はかなく消えいりそうな、切ない笑みを。

 おだやかで鮮烈な、異国の娘。


 ワレスは数年ぶりに屋敷をたずねた。


「ハナ。今日は神さまが、おまえにご褒美をくれたよ。おまえが信じ続けたから」


 港へ送ったジョスリーヌの使者が、やっと見つけてきた。


 ハナの瞳に涙が浮かぶ。

 それは、あたたかな涙。




 了

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