魔法使いの赤い薔薇
この話はジゴロのため息で始まり、侯爵の微笑みで終わる。
*
バレンタイン。
家族や親しい人に、感謝をこめて贈り物をする日。
国ごとに風習はあるだろう。
ワレスの生まれた国では、男が恋人に赤いバラを贈る。
この日、ワレスは大忙しだ。
朝から何人もの貴婦人に薔薇をくばってまわらなければならない。
一本や二本じゃない。ちょっと疎遠になった昔の愛人にも、この日はバラをバラまく。もはや、“贈る”んじゃない。これは“配達”だ。郵便物に近い。
ジゴロにとって、この日は一年で、もっとも忙しい日なのだ。一人の女に長い時間をついやしたくはないのだが、だからと言って邪険にもできない。難しいところだ。
早朝から近まわりの愛人たちにバラと愛の言葉をくばりまくり、あとは郊外の女を残すばかり。そっちは行き来に時間がかかる。全員には、今日中にくばれないだろう。
皇都から離れる前に、最後に本命のジョスリーヌのもとへ赴いた。
侯爵家の豪華な屋敷へ行くと、ジョスリーヌは不機嫌だった。
ワレスがあとまわしにしたことに気づいたのだろうか?
「親愛なる女侯爵。おれの一番、大切な友人へ。いつも、ありがとう」
と言って、リボンのついたバラを渡すのだが、ジョスリーヌは、ちろりと見るばかりだ。受けとろうとしない。
ワレスはため息をついた。
「ジョス。毎年のことだからあきらめてはいるが、あんたは今日のこの日になると、なんで、いつも、そんなに不機嫌なんだ?」
「ほっといてよ。あなたに関係ないわ」
ジョスリーヌがワレスに対して、こんなふうに言うのはめずらしい。よほど、ご機嫌ななめだ。
ラ・ベル侯爵家の一人娘に生まれ、何不自由ない人生を送ってきたジョスリーヌ。三十代初めで未亡人ではあるが、墓場に入るまでの贅沢を約束されている。それも、そんじょそこらの贅沢ではない。金貨をあぶくのように毎日、何千枚と使い続けても、身代にかすり傷ひとつつけようがないほどの大金持ちだ。どんな贅沢でもしほうだいだ。
ワレスが彼女の境遇に生まれていれば、どんなに幸せだったろうと思う。思うが、言ったところで、今さら生まれつきの身分は変えられない。
なので、せっせとジゴロ業に励むわけだ。
「わかった。わかった。じゃあ、今日はもう帰るよ。明日、また来るからな」
長居はしていられない。
今日はまだ、郊外に屋敷を持つ女が三人も、ワレスの来訪を待ちわびている。
ワレスが絹やビロードや美しいものだけに囲まれたジョスリーヌの部屋を、あわただしく出ていこうとすると、
「バレンタインなんて、大嫌い」
背後で声が聞こえた。
女王さまは、だいぶ荒れている。
どうする?
このまま行くか?
でも、あれは、かまってくれというジョスリーヌのサインだ。
毎年のことだから、不機嫌の原因には根深い理由があるだろう。それをときほぐすには、何時間かかるかわからない。となると、郊外は全滅になる。とはいえ、ジョスリーヌはワレスのパトロネスのなかで、一番の金持ちだ。というか、宿なしのワレスをひろってくれた恩人である。恩人をふりきって、ほかの女のもとへ行くのは、さすがにジゴロ失格だろう……。
ワレスは、くるりとふりかえった。
そして、長椅子にすわるジョスリーヌのもとへ歩みよると、その椅子のまんなかあたりに向かいあわせに腰をおろした。
「言ってみろよ。なんで嫌いなんだ?」
「男がみんなウソつきだと、あばかれる日だからよ」
「うん。おれはウソつきだ。でも、女だってウソをつくだろう?」
「わたしはつかないわ。少なくとも、愛に関しては」
「…………」
それは、そうだろう。
ジョスリーヌほど金持ちで美人なら、並大抵の男は彼女を嫌うはずがない。
つまり、選びほうだいだ。
ウソをつく必要もない。
しかし、ここで反論しても話が進まない。
「そうだな。あんたの美徳の一つだ。そういうところ、嫌いじゃない」
両手をにぎりしめると、ジョスリーヌのおもてに、かすかだが笑みが戻った。
「ウソつきね。でも、わたくしも、あなたのそんなところ、嫌いじゃなくてよ」
「ウソつきだけど、口は堅い。つかえてるものがあるなら吐きだしてみろよ」
ジョスリーヌは語りだした。
「あなたも知ってるように、わたくしは未亡人よ。夫がいたの。死んだけど」
「生きてたら、おれはたったいま、この屋敷から追いだされているな」
「ちゃかさないで。わたしたちの結婚は親どうしが決めたのよ。貴族ではよくあることよ。とくに名門の貴族はね」
「家柄のつりあいがあるからな」
ジョスリーヌほど勝手気ままな女でも、結婚だけは親の言いなりになるしかなかったわけだ。
「わたしの相手は、いとこのエドモンドだった。五つ年上のエドモンド。子どものころから、しょっちゅう、いっしょに遊んだわ。わかるでしょ? 幼なじみって、身近すぎて恋愛の対象になりにくいのよ」
「そうかもしれないな」
「わたしとエドモンドもそうだった。エドモンドは優しくて、おとなしくて、とても内気で、嫌いじゃなかったわ。でも、ひかえめすぎて、正直、男として見たことはなかった」
たしかに、ひかえめな要素しかない。聞いただけで地味な男だ。
「容姿は? 好みじゃなかった?」
「普通だったわ。整ってないわけじゃないけど、皇都じゃ、どこにでもいる平凡なルックスね。あなたほど美男なら、女がほっとかないわよ」
「知ってる」
うなずくと、ジョスリーヌはクスクス笑った。
「せめて会話が、あなたくらいに楽しかったらね。エドモンドの趣味は庭仕事だったのよ。理解できるかしら? わたくしと結婚して侯爵になったのに、あの人、毎日、庭師みたいに泥まみれになって、庭をいじってるの。わたくしが劇場に行きましょうと誘っても、闘技場に行きましょうと言っても、『僕はいいよ。一人で行っておいで』ですって。ふざけてるわ」
侯爵の趣味が庭師……それは、あまりにもパッとしない。
「それで、なんでまた急に、死んだ亭主の話なんかし始めたんだ?」
ジョスリーヌは、それには答えない。淡々と話を続ける。
「わたしたちの結婚は、ラ・ベル家の血筋を絶やさないためだけのものだった。だから、息子が生まれたときに、その使命は果たしたの」
子どもは生まれるんだな。ほんとに侯爵の子どもだろうか?——と、ワレスは考えた。
ジョスリーヌは魔法か女の直感で、ワレスの心を読みとった。
「エドモンドの子どもよ。それは間違いないわ。わたしが浮気をしだしたのは、そのあとからだもの」
「…………」
やっぱり浮気はしてるのか。
「息子ができて、わたしたちの距離は、だんだん遠くなっていった。数日、顔を見ないことはよくあった。夫婦で出席しなければならない宮中の式典で、数ヶ月ぶりに会うことも少なくなかったわ」
そういう状態の夫婦は、貴族社会にはたくさんある。だからこそ、ワレスの商売が繁盛するわけだ。
「イヤなら、離婚すればよかっただろ?」
「貴族は独り身より夫婦のほうが何かと都合がいいのよ。公式の場でね」
言いわけのように、ジョスリーヌは言った。
おや、おかしいなと、ワレスは思う。ジョスリーヌは世間体など気にするような女じゃない。
「それで、あんたがバレンタインを嫌いになった話は、いつから始まるんだ?」
「今からよ」と、ワレスの胸を指さきでつついて、ジョスリーヌは続ける。
だまって聞いておきなさいという意味だ。
「そんな人だったから、わたしはエドモンドからバレンタインのバラをもらったことが一度もないの。エドモンドはそういう気のまわる人じゃなかったし、わたしたちは愛情で結ばれた夫婦ではないから、しかたないことだと思っていたわ」
「じゃあ、いいじゃないか? 気のきかない旦那のかわりに、おれがバラくらい贈ってやるよ」
「でも、ほかの女にはバラをあげていたわ」
「えっ?」
ぶすっとした顔つきになって、ジョスリーヌは言う。
「あの人、庭仕事が趣味だったと言ったでしょ? 庭じゅうの赤いバラをひきぬいて、白バラに植えかえたのよ。わたしの部屋から見える範囲のバラを、全部よ」
侯爵家の屋敷には、ワレスも何度も来ている。
たしかに、この部屋から見える前庭には、いちめんの白バラが咲きほこっている。皇都は年間を通して温暖なので、冬でも花が咲いていた。
「ぬいてしまった赤いバラを全部、切り花にして、召使いのディディエンヌにあげていたわ。花を落とした株は、郊外の別荘に移しかえたみたい。エドモンドが死ぬ前の最後のバレンタインの日のことよ」
なるほど。それがバレンタイン嫌いの由縁か。
「いらなくなった花をすてるのが、もったいなかっただけじゃないのか?」
「そのあとすぐ、エドモンドはバラを持っていった別荘に移り住んだのよ。ディディエンヌをつれていったわ」
それは……反論できない。
完全に侯爵の愛人だろう。
つまり、侯爵は、愛の証の赤いバラをジョスリーヌの庭からひっこぬき、よそへ移すことで、浮気ばかりする妻を無言で責めたわけだ。
おれだって、おまえのことなんて愛してない、愛してるのは他の女だと、行動で示した。
「……だから、この日になると、そのときのことを思いだすんだな。だったら、庭の白バラを植えかえてしまえばいいのに」
「そうね。そのほうがいいのかもしれないわね。この屋敷から、エドモンドの思い出をすべて消してしまうわ。きっと清々するでしょう」
そう言いながら、ジョスリーヌの目の色は、少しさみしげだ。
ウソをついている。
どんなときにも、まわりのすべての人間からチヤホヤされてきた女王さまは、プライドが高いから言わないが、ほんとは侯爵を愛しているのだ。
それが恋愛感情なのか、幼なじみに対する友情の延長線上なのかまではわからない。だが、夫の裏切りを許さないていどには好意を持っていた。あるいは浮気をかさねていたことだって、庭いじりばかりしている夫の気をひこうとしてのことだったのかもしれない。
「わかったよ。ちょっと待っててくれ」
「どこへ行くの?」
「夕方までには戻ってくる」
ワレスは部屋を出て、ジョスリーヌつきの侍女から話を聞きだした。かなり年配の侍女だ。屋敷で起きたことをなんでも知っている。
「先代侯爵のエドモンドの日記や手紙が残っていないか?」
「先代侯爵さまのものは、侯爵さまが別荘をお移りになるとき、すべてご自身で処分なさいました」
「侯爵が生前、何を考えていたか知りたいんだが」
「わたくしどもでは、なんとも。ディディエンヌなら……知っているかもしれませんね」
「では、ディディエンヌは今、どこに?」
「まだ、別荘におりますよ。もともと、あの別荘は、侯爵さまがディディエンヌのために買いとられたものですから」
ワレスは場所を聞き、馬を借りた。
別荘についたのは、一刻後だ。郊外と言っても、比較的、皇都に近い。
別荘はビックリするぐらい質素な家だった。とても貴族の持ち家には見えない。生活にゆとりのある農夫の家みたいだ。まわりは畑にかこまれている。
ちょっと、ぼうぜんとしてながめていると、赤いバラの咲く庭に人影が見えた。小さな子どもが二人。それに母親らしき女だ。
ワレスは馬をおり、近づいていった。
「こんにちは。あなたが、ディディエンヌ?」
「さようですが、あなたは?」
ディディエンヌは、まだ二十代後半に見える。目鼻立ちの小作りな、ひかえめな印象の女だ。
しかし、ワレスを見て、両側から母親にしがみつく子どものほかに、背中にも一人赤子を背負っている。
「エドモンド侯爵のことで話が聞きたくて」
それだけで、ディディエンヌは何事かを察した。遠くの畑にいる男を指さして、子どもたちに言った。
「お父さんのところに行ってなさい。お母さんは大事なお話があるから」
侯爵が死んだのは、七、八年前のはずだ。ディディエンヌが別の男と結婚していても、誰にも責めることはできない。
「ラ・ベル侯爵家ゆかりのかたですか?」と、たずねるディディエンヌに、
「ジョスの友人ですよ」と答える。
「奥さまの……そうですか。わたくしに何を聞きたいのですか?」
「単刀直入に聞こう。あなたは侯爵と愛しあっていましたか?」
泣いて謝罪するだろうか?
それとも、弱い女の特権をぞんぶんに活かして、許しを求めるだろうか?
ところが、ディディエンヌは、いきなり笑いだした。
「わたくしと侯爵さまは、そんな関係ではありません。奥さまは、きっと勘違いなさっておいででしょうね。それを思うと申しわけなくて」
「でも、侯爵はこの別荘をあなたのために買ったと聞いた」
「侯爵さまは死期を悟っておられましたからね。亡くなったあと、わたしが譲り受ける約束はしていましたが、ほんとのところは、病がお屋敷の人たちにうつるといけないと、お考えだったからです」
「侯爵は伝染病だったのか?」
ディディエンヌは、ある病名を告げた。死病である。
(なるほど。それなら、屋敷を出ていった理由はわかる。たしかに、その後まもなく亡くなっているしな)
「だとしたら、あなたは看護役としてついてきたわけだ。たとえ別荘を譲り受ける約束とは言え、自分にうつるとは考えなかったのか?」
ディディエンヌは迷うような目で、ワレスを見る。
その顔、どこかで見たことがあるような? いかにもひかえめで、おとなしそうな……。
とつぜん、気づいた。
「侯爵だ。エドモンド侯爵の肖像に似ている」
ディディエンヌはうなずいた。
「さようです。わたしは侯爵の異母兄妹です。事情があって里子に出されましたけどね。兄には子どものころから可愛がってもらいました。兄を一人で死なせるのは、忍びないじゃありませんか」
となると、バラの件は、どうなるんだろうか?
妻に裏切られたことへの腹いせか?
いや、もし侯爵が腹いせをするような人間なら、死期を悟って別荘に引っ越したりしない。屋敷にとどまって、憎い妻やそのまわりの男たちに伝染してしまえばいいと考えるはずだ。
では、なぜ、バラを植えかえた?
赤から白へ?
「バレンタインの日に、赤いバラを侯爵から貰ったろう? あれはなんでだ?」
ワレスの口調は思わず、荒っぽくなる。
が、ディディエンヌは従順に答えた。たぶん、顔立ちだけでなく、性格もエドモンドに似ているのだろう。
「ああ、あの日はバレンタインでしたか。わたしが生活に困っていたからです。花屋に卸せば、いくらかの足しになりますから」
「それだけのことか。だからって、庭のバラを総植えかえする必要はなかろうに」
「バラは捨てるのがかわいそうだから、わたくしにくださったのですよ。植えかえたのは、兄の趣味じゃないですか?」
「死期を悟った人間が、わざわざ、庭木を植えかえたんだ。ただの趣味とは思えない」
ディディエンヌは考えこむ。
「そういえば、兄は言っておりました。子どものころに約束したんだと。魔法がどうとか」
「誰とどんな約束をしたか、聞かなかったか?」
「そこまでは……」
「侯爵の残した日記のようなものはないか?」
「ありません」
ディディエンヌから聞けることは、すべて聞いた。ここでは、もう何も得るものがない。
ワレスは侯爵の本心がわからないまま、皇都のラ・ベル侯爵邸にもどった。
ちょうど、日没前だ。
「ジョス。悪いな。ダメだったよ。死んだ人間の心は、おれにもわからなかった」
西日に金色に染まる部屋のなかで、ジョスリーヌは微笑する。
「いいのよ。あなたのその気持ちだけで嬉しいわ」
手招きするので、彼女のもとへ歩いていく。
「ねえ、ワレス。あの白バラは全部、植えかえるわ。そして、あなたの金色の髪のような、黄色いバラを植えるわ。バラの根元にはブルースターを。あなたの瞳の色ね」
まあ、ジョスの機嫌が直ったのならいいのだが。
とりあえず、これはナイショだよと前置きして、ディディエンヌがエドモンドの異母妹だったことを告げる。
ジョスリーヌは深刻な顔になった。
「……じゃあ、あの人は浮気してたわけじゃないのね」
「死期を悟っていたらしい」
「わたし、ただの一度もお見舞いに行かなかったわ。エドモンドが病気だって聞いても、きっとディディエンヌとの仲を隠すためについたウソだろうと思ってた。まさか死ぬなんて……」
ジョスリーヌの瞳から、すっと涙がこぼれおちる。
ワレスは彼女の肩をそっと抱いた。
「しかたないだろ。人の生き死になんて、誰にもわからないよ」
「そうね」
ワレスの胸にすがって泣くジョスリーヌは、少女のようにたよりない。
「あの人、子どものころからそうだったわ。気が弱くて、不器用で、何をやらせても失敗ばっかりで……。でも、優しかった。自分のことをあとまわしにするほど、他者に優しかった。病気なら病気と言いなさいよ」
「侯爵を愛してたんだろ?」
「愛してたわよ! わたくしの好きな華やかなタイプじゃなかったけど、この人とすごす穏やかな毎日も悪くないって思ったわ。わたくしは好きな人と結婚できて幸運だと。なのに、あの人、ちっとも、わたしのことなんて相手にしてくれなくて。子どものころのあの約束も、きっと忘れてしまったんだわ!」
約束?
——子どものころに約束したそうです。魔法がどうとか……。
ワレスはジョスリーヌの肩を両手でつかんだ。
「どんな約束だ?」
「まあ、何? そんな真剣な顔して」
「いいから、言ってみろ。どんな約束をした?」
とまどいながら、ジョスリーヌは答える。
「子どものころ、親しい親族だけを集めたバレンタインのパーティーがあったの。その席で、男の人が恋人にプロポーズしたのよ。赤いバラを贈ってね。バラをもらったその人は、とても嬉しそうで、輝いて見えたわ。うらやましかった。
ウットリして見てたら、エドモンドが言ったのよ。『君にも赤いバラをあげるよ』って。エドモンドに手をひかれて庭に出たけど、赤いバラは咲いてなかった。わたしは泣いたわ。そしたら、エドモンドは、そこに咲いていた白いバラを手折って、わたしにくれたの。『いつか君に庭いちめんの赤いバラをあげるよ。だから、今日はこれだけ』って。そのときね。ちょうど西日があたって、白いバラが金色に見えたわ。まるで魔法みたいだった」
その瞬間、西日が傾き、部屋のなかが金色から茜色に変わった。
ワレスは思いだした。
この屋敷の庭の形。バラの庭園の小道は、いやに《《くねって》》いる。まるで、その形は……。
しかし、ここは一階だ。
「そうか。わかったぞ。ジョス。今すぐ、侯爵の部屋に行こう」
「どうして? あの人のものは何も残ってないわ」
「いいから、急ぐぞ。時間がない」
ジョスリーヌの手をひいて、ワレスは部屋をとびだした。
*
エドモンドが生前、使っていた部屋は、思ったとおり四階にあった。四階の南向き中央だ。ここからなら、前庭が一望にできる。
「さあ、ジョス。これが、エドモンドのほんとの気持ちだよ」
窓ぎわに近より、フランス窓をあけて、バルコンへ出る。
紅に焼けた空。
庭のバラも真紅に染まっていた。
見渡すかぎりの赤いバラ。
「侯爵が死んで何年も経ってるから、刈りこみが不充分で読みにくいところもあるが」
そこに文字が書かれていた。
バラの花で記された文字だ。
“愛するジョスリーヌへ。
約束の赤いバラを贈るよ”——と。
「エドモンド……」
ジョスリーヌのつぶやきは、かすれて涙のなかに消えた。
魔法が世界をつつむ。
日が落ちて、残照の最後の赤が、夜のとばりに、にじむまで……。
了