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しのぶれど

3年前…


資格試験のために図書館通いをしていた俺は、毎日閉館まで勉強に明け暮れていた。さすがに訓練と勉強が一か月も続くと少し身体がダルく感じていた。


図書館を出ると、涼しくなってきた夜風にあたりベンチで休憩をする事にした。久々に熱の感覚がよみがえった。ひんやりとした風は遠のく思考をかろうじて繋ぎとめていた。



「大丈夫ですか?」



誰かが近くに歩み寄ってきたのがわかった。夜風に吹かれた髪が、さらっと俺の頬を掠めた。「救急車を呼んだ方が……」とっさに近くにいる人物の腕を掴んだ。



「ちょっと休んだら……大丈夫なんで……」



顔をあげる気力はなく、倒れ込む形で彼女に寄りかかった。大事にはしたくない。ぼんやりと薄れゆく意識の中で優しい声が響いていた。どれくらい時間がたったのだろうか、少しだけ身体が軽く感じ目を開いた。肩には女性物のカーディガンがかけられていた。あたりを見回したが、人影は確認できなかった。


まだ少し頭痛がするが、腕時計をみると閉館から2時間ほどたっていた。さっき声をかけてくれた女性ひとは、親切にカーディガンを置いて行ってくれたのだろう。その場から立ち去ろうとすると、「大丈夫ですか!?」と声をかけられ、振り向くと缶コーヒーを両手に持った小柄な女性ひとがこちらにかけてくるのが見えた。



「あ、あの……もしかして?」



俺が差し出したカーディガンを受け取ると、彼女はほほえみながら缶コーヒーをくれた。缶コーヒーは温かいのに、少しだけ触れた彼女の指先は氷のように冷たかった。よく見ると、秋の夜には少しばかり薄着なのが目にとまる。



「すみません。あの……上着なくて寒かったですよね?」


「いえ、毎日遅くまで勉強されていたし……とにかく体調が悪そうだったし、その、最近夜は冷えるので……」



俺のことを前から知っているような口ぶりだった。閉館時間になるころには、ほとんど人もまばらだ。となると図書館の関係者かな。それに、彼女は自分のことは後回しで、他人の心配をする博愛精神というか……随分とお人好しな人だと思った。おかげで俺は救急車で運ばれることは免れたわけだが……。どうお礼をしようか迷っていると、彼女は電車の時間があると言ってカーディガンを羽織る。



「あの、コーヒーありがとうございました」



さり際の彼女の笑顔が今でも忘れられない。




そして、5か月前…


同期のりつが彼女と別れることを決めた。直後に律から彼女のことを託された。少しでも2人のためになるならと、あいつがこれ以上辛い思いをしないよう結衣ゆいさんを見守ることを決めた。


律から聞く彼女は、誰に対しても優しく、いつも人のことばかり考えて損ばかりしているような俺とは似ても似つかないタイプの子だった。俺はどちらかというと、自分に利がないところで『人に優しく』なんて考えもしないし、面倒事とは無縁なタイプだ。


そんな俺が、あいつのためにこんな面倒事を引き受けるなんて……。とりあえず、彼女には律のことを諦めて、前向きに生活をするよう伝えるしかない。それとも他の誰かを紹介して事をおさめるか……。どちらにせよ、早めに解決したい。



「あの…こちらに三雲みくも結衣さんが働いていると思うのですが…」


「えっと…」


「私、東堂とうどう圭介けいすけと申します。高宮さんのことでお話があると伝えていただけますか?」


「わ、わかりました。少々お待ち下さい」



そこで見たのは、いつか俺を助けてくれたあの彼女だった。彼女の方は、俺のことを覚えていないようだった。本が好きなのか、カバンからは今話題のハードカバーの本が2冊見えた。俺も読んだことがある物だった。気丈に振る舞っているようだが、よく見ると顔色があまりよくない。こんな状態の時まで律の心配をする彼女に少し苛立ちを感じる。


あいつの都合で振り回されているのに、復縁を期待している様子や不満をもっているわけでもない。ただただ、律が少しでも幸せに過ごしてほしいという願いのみが伝わる。博愛精神はあのときのままだった。ただ、今その愛情は俺ではなく、律に向けられている。


本当はすぐにでも諦めてもらうことを伝えにきたはずなのに、何故だか律の置かれている立場や、彼女に非があるわけではないことを説明している自分がいた。俺の説明を聞いて彼女の目から涙が溢れて止まらない。


女の涙なんて……いつもなら面倒で見ることもなかったのに、彼女が流す涙は嫌な感じがしなかった。それどころか、目を離せない自分がいた。



「律のことで話したいことがあったら、俺でよければ聞きますから連絡して下さい」



いやいや、何言ってんだ俺? 彼女は涙を流しながら初めて俺を見てくれた気がした。俺は柄にもなく彼女の涙が止まるまで、その場を動けずにいた。この頃から彼女の頃が頭から離れなくなっていた。



あれから1週間が過ぎたが、彼女からの連絡はなかった。連絡がないと言うことは、何も話したいことはないということ。もしくは不審者だと思われてたりするのだろうか……それならまだいいが、あの様子だとあまり食べていないだろう……いてもたってもいられず、律から聞いていた彼女のアパートの扉の前にいた。


しかも、最近はやりのチョコレートの小袋を手にしていた。俺が女のためにここまでしているとは……。このまま帰ろうかとも考えたが、少なくともあの日の涙は、俺が話した内容が原因なわけで、それならば何かあったとき、責任の一端は俺にもあることになる。意を決してチャイムを鳴らすと、中からぱたぱたと急ぐ足音が聞こえた。



「きゃ」



勢いよく扉が開くと、つまづいた彼女が倒れ込んできた。思わず抱きしめる形になってしまったが、その重量の無さに驚いた。俺の顔を見上げる彼女の目はやや赤く腫れているように感じた。


明らかに扉を開けたときの期待の表情は、俺には向けられていないことがわかった。このまま腕の中に閉じ込めたい衝動を抑え、彼女に持ってきたチョコレートを手渡す。


こんな状態になっても、相変わらず彼女は律の心配ばかりしていた。傷ついているのは貴女なのに。俺は悲しい顔の彼女ばかりを見ている。早く彼女を笑顔にしてやりたい。



「あなたは何も悪くない。これ以上、自分を責めることはやめなさい。今は難しくても、いつか時間が解決してくれるのだから」



思わず口にしていたその言葉は、少しでも彼女を救ってやりたいと思う俺のエゴだった。



「東堂じゃん! めっちゃため息ついてるけど、失恋でもしたの?」


川端かわばたさん、いきなり現れて声大きい」


「あ、ごめんごめん、つい癖で」



なんの癖だよ? 大学の頃からこの女性ひとは無駄に明るく活発で、今の俺の心境には重たい存在である。しかも失恋て。恋かすらもわからないわ。



「そういえば、さっき律にも会ったけど、おんなじような顔してたなぁ。さっすが親友、以心伝心ってやつ?」



あいつは自業自得だっての。内心イライラしながらも、基本外に感情は出さないようにしている手前、笑顔で対応する」



「で? 何か用でもあった?」


「おー怖っ! 無理に笑わなくってもいいじゃん。東堂も相変わらずだね。それより、くれどうすることにした?」


「何で知ってんの?」



にこにこするだけで、誤魔化す川端さんに異動の話はまだ決めきれてない事を伝える。「私だったら即オッケー出すけどなぁ」と羨ましがられるくらいには、今回の呉への異動は異例の出世コースだったのだ。



「ま、まさか例の彼女!?」


「いや、そればっかりではないけど…」


「ねぇ、彼女はまだ律のこと思ってるんでしょ? そこと今回の呉は天秤にかける事じゃないと思うんだけどなぁ」



川端さんの言う通りだと思う。ただ、今俺が横須賀を離れたら彼女はどうなってしまうのか……そればかりが気になり返事を出来ないままでいた。一応、夏までに返事がほしいとのことだったので、まだ時間はあるし、それまでには彼女のことも解決しているだろう。


それから彼女とは何度も会うようになったが、彼女の中から律が消えることはなかった。そのせいかお互い律を通しての関係以上には発展はしなかった。


それでも彼女の側で、彼女の笑顔を見られる日が増えてきたことは俺の中では大きな変化だった。その日は彼女が働く図書館近くに用があった。もしかしたら彼女に会えるのではないかと期待している自分がいることに心底驚いた。駅に着くと、彼女と若い男が一緒にいるのを見かけた。若い男の方が彼女に言い寄っているように見え、思わず声をかけた。



「結衣さん?」



2人の会話を遮る形になってしまったが、彼女が俺の顔を見てホッとしたように見えたので会話を続けることにした。職場の同僚という男はそそくさと改札を通って行ってしまった。せっかく彼女に会えたのに、このまま離れるのが惜しくなった。俺は仕事を口実に彼女を引き止めたのだった。


ついこの間まで、律のことでいっぱいいっぱいになっていた彼女だったが、俺の存在が彼女の心の片隅に入っていっているような感覚に少し浮かれてしまった。


彼女がいつか律のことを忘れて、笑顔で過ごせる日がきたとき、彼女の側に俺はいられるだらうか……。



「まだ、律のこと忘れられませんか?」



自分の不安を解消しようとした質問だったが、彼女の表情を見てやめておけばよかったと後悔した。


彼女の中から律がいなくなるわけもなく、やはり俺は律の同僚でそれ以上でも以下でもないことを思い知らされた。自分の気持ちを紛らわすために、彼女と仕事の話をしたが、ざわざわした胸のわだかまりは取り除くことは出来なかった。


彼女が基地に取材へ来る日、律に急用ができ取材協力ができないと連絡が入った。急遽、代打で入っている医官の仙崎さんに取材を頼むことになった。彼女が律に会わないことに、少しだけホッとしている自分に嫌気がさす。



「こんにちは、川端と言います。今日はよろしくお願いします」


「三雲です。よろしくお願いします」


「もしかして、あの三雲さん!?」



川端さんはちょっとテンション上がり気味で、俺と彼女をニヤニヤと見ている。結衣さんは不思議そうに川端さんと俺を見ている。まじで、こんなとこで余計なこと言わないでよ!


結局その後、律が戻ってきて彼女にやり直したいと告げることになった。俺は自分自身の感情を抑え、彼女の幸せを後押しする形になってしまった。


自分でもバカだなと後悔はしたが、彼女の想いがようやく叶ったことに、自分の中のモヤモヤした感情も多少マシにはなったと思う。



「東堂! 飲み行くよ!」



その日は川端さんに連れられ飲みに行くことに。俺の失恋を慰める会はあっという間に終わり、いつも通り朝まで愚痴に付き合わされた。

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