Ritsu to Chiyo
「律先生、こっちこっち!」
「千代ちゃん、走ったらダメだよ!」
満開の桜の下で微笑む彼女を守りたいと真剣に思っていた。
彼女は、生まれつき心臓に重い疾患を抱えており、入退院を繰り返しながら消えそうな命の灯火をどうにか繋ぎ止めていた。
そんな彼女と出会ったのは俺が研修医だった25歳のときだった。大学生だった彼女は移植手術に向けて準備を進めていた。
「あーあ、つまんないの。あれもダメ、これもダメって、律先生、私に自由は一つも無いのね」
「移植手術をしたら、出来ることも増えるんじゃないかな? だから今はその準備をしているんだよ」
「はーい。律先生、元気になったら私に満天の星空を見せてね!」
「元気になったらね」
彼女は弱いところを見せず、満開の桜のように優しい笑顔で周囲の人間を明るくしていた。
昼過ぎに病室の前を通りかかると、ベッドで横になり窓の外をぼんやり眺める彼女の姿があった。いつものように声をかけようとノブに手をかけると、彼女のほほを伝う涙が目に止まった。
やはり二十歳そこそこの女の子が抱えられるほど命は軽く無いということだろう。それでも彼女は気丈に振る舞い、周囲にそれを悟られないようにしている姿に胸を打たれた。力になりたいと思った。だから彼女の入院している病院での研修期間が終わっても、時間を見つけては彼女の病室に訪れたり、散歩に付き合ったりしていた。
「律先生は彼女いるの?」
「いや、忙しくてそれどころじゃないな…」
「そっかぁ、確かに律先生、イケメンなのに女心これっぽっちもわかってないもんね」
「褒めてんの? けなしてんの? てか、忙しいって言ってんじゃん」
病院の敷地内には広場や花壇がいくつもあり彼女のお気に入りだった。いつも楽しそうに俺の前を歩く彼女にどんどん惹かれていった。
「私が律先生の彼女になってあげる!」
顔を真っ赤にしてそう言った彼女の手を取ったことをどれだけ後悔したことか…。
「律くん、私ちゃんと病気を治して、律くんの彼女です! って胸はって言いたいな」
「大丈夫だよ。今でも千代は俺にとってかけがえのない存在なんだから。いつでも胸はってて」
「何か、律くんと一緒にいると幸せすぎて怖い!」
ベッドに潜り込む彼女を捕まえてキスをする。何度もしてるはずのキスにも頬が赤くなり、苦しそうに目に涙を浮かべる彼女が愛おしくて仕方がなかった。
彼女と会うのはいつも病室で、それでも俺は何の不満もなかったし、側にいられるだけで幸せだった。
季節は巡り、彼女と出会って2年が過ぎ去ろうとしていた。移植手術を目の前にして、少しずつ体調が悪くなっているようだった。
「律くん、私あとどれくらい生きられるのかな…」
彼女もそのことに気づかないわけがなかった。その頃からよく泣くようになり、情緒が安定しない日が増えた。俺は医者なのに何もしてやれることがなかった。それどころか、彼女と付き合っていることが家に知られ会うこと許してもらえなくなった。
「お前は何を考えているんだ! 防大の医学部に行かせたのは恋愛ごっこをするためじゃないぞ。研修が終わったらうちの病院で働きなさい。ゆくゆくはお前がこの病院を継ぐのだから」
「俺は医官になるために防大に入ったんだ。病院は兄貴が継げばいいだろ!? 俺は戻るつもりはないから」
小さい頃から出来る兄貴と比べられることも、家のごたごたに巻き込まれるのにも心底うんざりだった。今の俺には千代がいてくれさえすればそれでよかったのだ。
「…律くん…私たちもう会うのやめよ…これ以上迷惑かけられないよ」
「千代のこと、迷惑なんて思ったこと一度もないよ。俺はこの先もずっと千代の側にいるから」
千代の身体を抱きしめると、日に日に痩せていっているのがわかった。それから数日後、千代は行き先も告げず俺の前から姿を消した。




