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 寝台を取り囲んでいたカーテンがしゃっと音を立てて開く。中から現れたのは背の高い若い男だ。歳の頃は二十代の半ば。細面の整った容姿に不釣合いな丸眼鏡をかけ、雛鳥の産毛のような色をした髪を長く伸ばし、首元で緩く結んでいる。

 彼は両手を白いハンカチで拭う。見る間に白が赤く染まる。向かいのベッドに行儀良く腰掛けていたシファは、それに思わず眉を顰める。この力ゆえに、彼女は幼い頃から人の死を何度も体験してきた。いまさら血の色ごときで怯えたりはしない。しかし、彼の手についていた血は、遺体の腸を切り裂いて出た血だ。

「貴方の言うとおりだった」

 ユリエラ・セルヴィエはサイドテーブルに汚れたハンカチをほおり投げ、ため息をつくように言った。

 シファは「そうですか」と頷く。その答えは予測済みだった。反対に説明を再度求めたのは、傍らに立っているアーシェラだった。

「では、本当に彼女は毒で死んだのですか?」

「ああ。まあ、詳しいことは胃の内容物を見ないとなんともいえないが、貴方達が見たという死に方といい、死体の様子といい、ほぼ間違いないだろう」

「彼女は、血を流して倒れていたと言っていました。それを見つけた自警団がわたしなら治せるだろうと、ここへ運んできたのです。そのときは、確かに死に掛けてはいました。ですが、それはとても穏やかなものに見えました。ゆっくりと命が体の中から抜けていくように、見えたのです」

 しかし、その様子が突然変わった。激変といってもいい。まるで死の神によって、胸の中から無理やり魂を引きずり出されたかのようだった。激しい苦痛にのたうつことさえも出来ずに、死んでしまった。

 シファの言葉に、ユリエラが鳶色の瞳を向ける。その瞳が、正視に堪えられないというように伏せられ、いまだに血の汚れのついた手で無造作に髪の毛を掻きまわした。

「これは俺の失態だ」

「そうですね」

 シファは特に否定もせず、頷いた。彼は、そのあっさりとした返答に顔を歪める。否定して欲しかったわけでもないだろうが、改めて突きつけられて落ち込んだらしい。自分で自分の喉に刃を突きつけた形になったら彼は、深々とため息を付いた。それは泣き出す直前の赤子の表情に似ていた。

 カーテン一枚挟んだ向こう側では今日死んだばかりの娼婦の死体がある。それを前にして、シファは思わず小さく声を出して笑ってしまった。何故笑われたのかわからないユリエラは、きょとんとする。

「シファ様?」

「いえ。ごめんなさい。あなたがあんまりに可愛いものだから」

「・・・・・・大人の男に可愛いは、ないと思うんだが」

 喜んでいいのか哀しんでいいのかわからない、複雑な顔をして、ユリエラは言った。

「まあ、貴方がそれほどお怒りじゃないのは、助かるが」

「いいえ、怒っていますよ。ですが、それはユリエラ、あなたにではなく、あなたの元から薬を持ち去り、それを悪用している者達に対してです」

 ユリエラが、泥棒に入られたと教会へ駆け込んできたのは半月ほど前のことだった。それだけなら、この下層区ではよくあることで、驚くほどのものでもない。生活が貧しい人間は、心まで貧しくなる者もいる。金さえあれば、ここの暮らしから抜け出せる。金さえあれば、苦しみから逃げ出せる。そんな思考に陥った者達が一時の金を求めて、悪事に手を染めるのはよくあることだった。

 しかし、問題なのは盗まれたものだった。

「いまだに盗んだものたちの行方はわからないのですか?」

 シファが隣に視線を向ける。アーシェラが答えた。

「目下全力で調査中ですが、今のところはかばかしい成果は。ユリエラ医師の目撃証言にもあるとうり上流階級の人間が深く関わっているなら、探がしだすのは困難かと」

 彼らは秘密主義者だ。己の些細な失態が、相手を喜ばせる蜜になることを知っているのだ。

 シファは一応は予期していた返答ではあったが、少しばかり肩透かしを食らう。

「ですが、時間がかかればかかるほど被害は増えるのは必至でしょう。ましてや、それがもし上流界で蔓延したとしたら、この国は根底から覆されてしまうかもしれません。――――あの毒には、解毒剤がありません。わたしの血でも効かないのです。いえ、むしろあの毒を飲んだ者にわたしの血を与えれば、毒効が逆に強くなってしまう」

 それを最初に欲しがったのはユリエラだった。今後の医学のために役立てたいと乞われ、それが危険なものであると知りながら医師であるならと、信頼して手渡した。もちろん、彼のことは今でも信頼している。ただ、あの毒の情報がいったいどこから漏れたのか、そのことにさえいまだにつかめていない。

 その毒を、シファが所持していたことを知るものはごく限られていた。シファが心を許す仲間内だけだったはずだ。なのにそれは他人の知ることとなり、ユリエラの元から盗まれた。

 決して癒すことの出来ぬ毒。それは女神の奇跡と歌われるシファでさえ、どうすることも出来ない毒だった。その毒が盗まれた。盗むだけなら、いいのだ。そのまま廃棄するなり、誰の手にも届かない場所に隠してくれるなり、ユリエラのように医療に役立てようと考えてくれているのなら。しかし、人様の家へ勝手に侵入して物を盗むような輩が、毒を毒以外で使用するだろうか。いや、まずそれはない。毒は毒として、これ以上ないぐらい毒らしく使われるだろう。

「・・・・・・お間抜けですね」

「は?」

 ユリエラが目を見開く。

「間が抜けていると言ったのですよ、わたしも貴方達も。いつまでたっても毒を見つけることは愚か、犯人を探し出すこともできない。これは本当に、あり得ないほどの失態です」

 それは苛立ちだ。しかし、苛立ったところでどうすることもできない、その無力感。シファは小さく嘆息する。人には能力の向き不向きがある。情報探索は、自分たちの能力範疇外だ。しかし、朗報がもたらされるのをただ待つことしかできないというのは、自分で動く以上に疲労感と焦りがあった。

「とはいえど起こってしまった出来事を悔やんでも仕方がありません。そして、人には役割というものがあります。毒探しや犯人探しはわたし達の役目ではありませんから、他の者たちが情報を集めてくるのを待つしかないでしょう。とはいえど、あなたの失態は、やはり帳消しにはなりません」

 シファがひたとユリエラを見据える。青年医師の顔がひくりと強張った。彼女の怒りを感じ取ったのだろう。

「で、でもこの間は誰にでも失敗はあるし、俺の場合は不可抗力だったから仕方がないっていってなかったっけ?」

 確かに、薬を盗まれたとシファに泣き付いて来た時、彼の落ち込み振りがあまりに酷かったので、すべてが彼の責任ではないとシファは慰めた。事実、盗まれた人間と盗んだ人間、どちらが悪いかといえば明らかに後者だ。それを盗まれる方にも油断があったからだとか、自衛手段が悪かったのだと責めるのは、筋違いだ。

 ましてや、ユリエラはあの薬を鍵のかかる棚の奥にきちんと隠していたのだし、外出時にはきちんと家の鍵も掛けていた。薬のことを人に言いふらしてもしていない。

 だからこれは、別に彼を責めているわけではない。彼が悪いわけではない。

 シファは微笑んで頷いた。

「ええ、そうです。だからあなたを責めているわけではありません、ユリエラ。これはただの八つ当たりです」

「八つ当たり・・・?」

 彼の頬の肉がひくひくと痙攣を始める。

「あなたのために、わたし達が折る労力の分だけの、仕事を」

 いやだから、それは結局俺のことを怒ってるってことだよな、シファ様ぁ!! と人気のない病室の中に悲痛な声がこだました。



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