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6

 浮浪者たちに配っていたパンもなくなり、籠の中が空っぽになったのを確認する。最後のパンを受け取った老女が、「聖女様」と手を差し伸べてくる。その皺と垢で黒ずんだ細い手を両手で握り返してやると、目やにのたまった目に涙を浮かべる。

「ありがたい、ありがたい」

 熱に浮かされた声に、微かな苦笑が漏れた。

 たかがパンを一つ恵んだだけで、彼らは本物の女神にでも遭遇したように自分に向かって感謝する。しかし、与えたパンは決して上等なものではないし、むしろ小ぶりで今日一日をかろうじて食いつなげるかどうかだ。家も家族も職なく、人々から疎まれながら生きている彼らにとっては、たった一個のパンが救いに見えるのだろうか。だとしたら、ずいぶんとかなしくて哀れだ。

 いつまでも礼を述べ続ける老女の手をやんわりと押し返し、その場を離れるために歩き出す。

 そのとき、名前を呼ばれた。 

「シファ様!」

 振り返ると、濃紺のダルマティカを身に纏った若い修道女が慌てた様子で駆け寄ってくる。よほど探し回ったのかくすんだ茶色い髪を乱しそばかすを散らした頬を桃色に染めている。

「ユーニス」

 彼女はシファより三つ年上の、同じ教会に所属する修道女だった。

「こんなところにおいでだったのですね」

「パンを配っていたのです。わたしを迎えに来てくれたのですか?」

「お一人で教会の外へは出歩かぬようにと何度も申し上げたはずです。シス司祭も心配しておられました」

 その血が奇跡を起こすと知れ渡ってから、彼女を女神の使わした聖女と崇めるものが増えた。それと同時に、彼女の血を求めて悪心を企てるものも出てきた。シファを生け捕りにすれば、不治の病さえ治すというその血を喉から手が出るほど欲している人々に高値で売りさばき金儲けが出来ると考えているようだ。実際、何度か誘拐されかけたこともある。だから、シファの周りにいる人間は、常に彼女の身を心配してばかりいる。

「さあ、こちらへ。どこに悪しき考えのものがいるとも限りません」

 シファは、修道女に手を引かれて教会へ戻った。

 エル・タリア女神教会は下層区にはありがちの質素な飾り気のない教会だ。立ち並ぶ建物の隙間に申し訳程度の敷地を持ち、その中に石組みの小さな聖堂がある。その奥手に司祭や修道女たちが暮らす宿坊と、怪我人や病人が短期入院できる診療所、鶏や家鴨のための家畜小屋と物置小屋があり、庭は菜園畑になっている。

「シス司祭が中に」

 シファはユーニスに促されて聖堂の中へ入る。彼女とはそこで別れた。岩場から削ったばかりというような荒々しい石壁と天井高くに申し訳程度に取り付けられた明かりとりの鎧窓のせいか、聖堂の中は薄暗くひんやりとしている。正面にはエル・タリア女神の像が置かれ、その手前に司祭服をまとった男が立っている。彼は扉を開ける音に気づいて、すぐに振り返った。

 教会最高位の司祭と呼ぶには、ずいぶんと若く今年で二十代の半ばにようやっと差し掛かったばかりの青年だった。厳格な聖職者でありながら、癖の掛かった灰色の髪を襟足長く伸ばし、高潔な司祭服の詰襟に絡ませている。物柔らかな表情や口調と優しげな微笑が、女性信者の密かな憧れになっていることをシファは知っていた。

 青灰色の瞳を細めて、彼は彼女を見る。

「お一人では出歩かれぬようにと、申し上げておいたはずです」

「ええ。知っています」

 シファは素直に頷いた。腰の辺りで両手を組み、物分りのよい娘を演じてみせる。アーシェラ・シスは常なら穏やかな笑みを浮かべている唇からため息を吐いた。

「知っているだけでは意味がありません。それをきちんと実行して頂かなくては」

「ええ、その通りですわね」

「シファ様」

 咎める口調が強くなった。シファは肩を竦めた。

 鳥籠の鳥でもないのに、彼女はこの教会に閉じ込められている。それが彼女の身の安全を守るためとは言えど、時々本当に鳥のように翼が欲しいと思う。その苛立ちがつい口をついた。

「わたしがいなくなれば、貴方達は心穏やかに過ごせることでしょうね」

 とたん、アーシェラの表情が哀しみとも怒りともつかないものに変わる。どちらの感情も混ぜた声で、シファを叱った。

「たとえ嘘でも、そんなことを仰るのはやめてください。あなたがいなければ、わたし達ががここにいる意味がない」

「・・・・・・そうですね。失言でした。以後気をつけます」

 生真面目な彼は、シファの命と身の安全を第一に考える。例え冗談でも、それをないがしろにするようなことを言えば説教は免れない。わかっていて感情を押し殺せなかったのは、シファの落ち度だ。だから素直に謝ることにした。

 司祭の灰色の瞳はじっとシファの見つめていたが、結局それで許されたのだろう、もしかしたら諦めただけというほうが強いのかもしれないが、彼は嘆息を一つ付くと別のことを口にした。

「お客様が、いらしています」

「まあ、わたしに?」

「ええ。それに病人が一人運び込まれました」

 シファは驚く。すぐに表情を引き締めた。

 アーシェラの口ぶりからして、病人の症状が軽いものではないとわかったからだ。

「診療所にいるのですね?」

 問いかけたときにはもはや歩き出している。

 聖堂から柱廊で結ばれた先に小さいながら診療所がある。かつては倉庫か何かに使われていたらしい建物を改築したのだ。もともとこの教会はシファたちが訪れるまで廃墟となっていた。下層区と呼ばれる場所の中でも底辺に位置するこの区域では、もはや信仰など誰も持たない。そこに救いがないことを、皆知っているからだ。神に祈りを捧げても、今日食べるものがなければ死んでしまう。そういう現実の中で生きる人々には、神の存在などないに等しい。

 それでも、シファたちは穴の開いた壁を修復し、崩れ落ちた鐘を新しい物に取替え、雨漏りのする屋根を直して、教会で暮らす道を選んだ。教会で、人々にために祈りを捧げる方法を選んだ。

 ――――それ以外に、術がなかったからだ。

 診療所の部屋数は全部で三つしかなく、そこにギリギリまでベッドを詰め込んで、病状の重いものを治療している。とはいっても、この教会に医師はおらず、治療も看護もシファを筆頭に修道女達が行なっていた。それでも、機能はしている。

「一番手前の部屋です」

 部屋の中には六つのベッドが並んでいたが、ほとんどのベッドは開いていた。ここの部屋は緊急の患者用なのだ。その病人は、一番手前の入り口のすぐ近くに横になっていた。胸元の大きく開いたドレスは、日の光の下で見るには派手すぎる。たわわに押し上げられた胸に折れそうに細い腰のくびれ。一目で娼婦とわかった。

 ここへは医者にかかれないほど貧しいものや、医者が匙を投げた重病人が最後の救いとしてやってくるのだ。彼女は前者だろう。

 シファはすぐに彼女の枕元に立った。

 化粧をしているというのにはっきりとわかるほど肌は土気色をしている。唇は紫色に変色し、時折瞼が痙攣している。額に触れたが熱はなく、むしろ冬の日の水のように冷たい。唇の端から吐血をしたらしい血のこびりを見つけた。

「二十三区の裏路地に倒れてました」

 ベッドを挟むようにして反対側に立っていた男が言った。シファが目を上げると、男はぺこりと頭を下げる。色あせた上着の腕に巻かれた赤い腕章は自警団を意味する。男の顔には覚えがあった。

「トミー・リグレですね」

 シファが名前を覚えていたことがよほど嬉しかったのか、親子ほども歳が違うというのに男は嬉しげに笑った。

「聖女様に名前を覚えてもらえて光栄です」

「彼女は?」

「はあ、たぶんこの格好からして街娼でしょうな。最初から意識はありませんでね、血を吐いておったんですよ。たぶん肺病でしょうな。医者に見せるにもたぶん手遅れだろうと思って、こちらに連れてきたんですが・・・・・・・助かりますか?」

 額から感じ取れる生気は、もはや微弱と言っていい。まるで蜻蛉の羽音のようだ。命はもうほとんど肉体から離れようとしている。

「わかりません。ですが、できるだけのことをやってみましょう」

 シファが差し出した手に、アーシェラが小型ナイフをのせる。その柄を握り、刃先を親指の先に当てた。鈍い痛みと共に、切り裂かれた皮膚から赤い血が溢れ出る。ごくりと、トミーが緊張のためにか喉を鳴らした。用を終えたナイフを隣にいるアーシェラに返し、シファは血の溢れる指を眠る女の唇の間に押し込んだ。ゆっくりと舌に、傷口を押し付ける。そして、確実に血が彼女の喉奥へ流れ込んだのを確認して、素早く指を引き抜いた。

 最初彼女の様子に変化はなかった。ぐったりと眠ったままだ。しかし、ぴくぴくと痙攣していた瞼の動きが止まったと同時に、頬に血の色が戻り始めた。微かだった呼吸が感じられるようになり、胸の上下が大きくなる。まるでからからに乾いた大地に降り注いだ恵の雨を受けて、息を吹き返した草花のそれに似ている。

 助かった。誰もがそう思ったはずだ。シファも、そう感じた。少なくとも、シファはこの方法で、零れ落ちかけた命を取り逃がしたことは一度もなかった。シファが救えないときがあるとすれば、それは死人だけだ。いや、死人でさえ、彼女の血を持ってすれば、蘇らせることも出来ると、信じるものもいる。ゆえに、彼女は女神の子と称えられ、殉血の聖女と呼ばれるのだ。そして、その力ゆえに、愛され疎まれてきた。

「さすが、殉血の聖女様だ。なんて素晴らしい神の御業だろう」

 眼前の奇跡にトミーが感嘆の声を上げたとき、突然ごほりと鈍い咳を、女が上げた。続けて、体を海老のように反り返らせ、激しく咳き込む。瞑っていた目をかっと見開き虚空を睨むその表情は、壮絶だ。

「お、おい!」

 助かったと思った女の突然の異変に、トミーがうろたえた声を上げた。それはシファたちも同じで、驚きで立ち尽くす。女はその格好のまま二度、三度と大きく痙攣をすると、ぱたりとベッドに倒れ付した。それ以後ぴくりとも動かなくなる。微かに開いた口から、どろりとした赤黒い血が溢れ出る。

 先ほどまでの安らかな寝顔とはあなりに違いすぎる女の表情に、誰もが息を飲んだ。

「し、死んでる」

 震える指で女の首筋に触れていたトミーが事実を述べた。

「な、なんだったんだ、さっきのは? 突然、あんなふうになるなんて・・・・・・・聖女様?」

 答えを求めるというよりは助けを求めるような視線だった。シファは詰めていた息を、彼に気付かれぬように吐き出すと、小さく早鐘を打つ心臓を落ち着かせるため深く息を吸い込んだ。シファにとっても、これは予期せぬ事態だったのだ。

 かっと見開かれている瞳に手を被せて、瞼を閉じさせる。

「・・・・・・申し訳ありませんが、わたしの力が及ばなかったようです」

 紡ぐ声は、少し掠れている。彼女は労わるように女の頬を撫でて、投げ出された手を胸の上で祈りの形に組ませた。

「この方の身よりはわかりますか?」

「あ、いや・・・・・どう見ても私娼ですからなぁ。他の娼婦達に当たって見ますが・・・・・・みつかるかどうか」

「そうですか。ではもしこの方のお身内の方が見つからなければ、こちらで葬儀と埋葬の手配をいたします。それと、これを」

 シファは女の指にはまっていた安物の銀色の指輪も外した。

「彼女の身元を探す手がかりになるかもしれません」

 それを受け取ったトミーは光にすかすように指輪の内側を覗き込み、わかりましたと頷いた。そして、少し躊躇うようにシファを見やると、同情するような目で言った。

「聖女様のせいじゃないですよ。聖女様は立派だった。助からなかったのは、この女の運命なんでしょうな」

 まだ可憐といってもいい少女が、自分の体を傷つけて人々を救う。その奇跡に人は感動し、同時に同情もする。シファは弱々しげな微笑を浮かべ、目を伏せた。ただそれだけの仕草でも、トミーには感動を与えたらしい。男はぺこりと頭を下げると足早に教会を出て行った。後にはシファとアーシェラが取り残される。

 彼女はじっと女の死に顔を見つめる。苦悶と苦痛と恐怖にいどろられた表情だった。

「・・・・・・わたしのせいです」

 彼女は言った。隣に立つ青年司祭の気配が揺らぐのが、空気を通して感じられる。そんなことはないと、言いたいのかもしれない。

「少なくともわたしが余計なことをしたばかりに、彼女は安らかな死を失ってしまった」

「シファ様――――」

 そんなことはないと言外に滲ませた声を、しかしシファは遮る。

「アーシェ、すぐにユリエラを呼びなさい」

 それはシファが懇意にしている医者の名前だった。

「ユリエラ医師を、ですか?」

 いまさら死者を医者に診せてどうするのだと、アーシェラの声に戸惑いが混じる。シファは彼へと振り向いた。

「彼女の検視をお願いしようと思います」

「それは・・・ですが・・・・・」

 彼が言葉を濁す理由はわかっていた。

 普通は娼婦が死んだくらいでは、そんな真似はしない。そもそも医師を呼んで検死などという行為を行なうのは、警察がよほどの不審な死を遂げた遺体を見つけたときぐらいだ。教会には、そんな権利も義務も持ってはいない。それに、世間一般では、それは死者への冒瀆とされる。

 アーシェラが眉を潜めるのも当然だ。だが、シファは言葉を撤回しない。これは命令だった。彼女は「それと」と、言葉を続ける。

「キラに指示を。ジェーン・アボットという名前の娼婦の身辺を探るようにと」

「ジェーン・アボット?」

 突然シファが口にした聞いたこともない名前に、アーシェラが困惑する。その表情が、生真面目な彼には珍しく愛嬌があって彼女は思わず笑みを浮かべてしまった。そして魔法のように、右手にシンプルな金色のブレスレットを出してみせる。先ほどこっそりと抜き取っておいたものだ。

「彼女の名前です。先ほど手を組み合わせるときにこのブレスレットに気付きました。この裏側に名前が刻んであります。彼女か、もしくは彼女の大切にしている誰かの名前でしょう。どちらにしても、彼女の身元を探る手助けになるはずです。――――トミーには申し訳ないとは思ったのですが、我々より先に彼女を知る人物を探り当ててもらっては困りますから。キラなら、名前一つあれば多くを探り出せるでしょう。アーシェ、二人に連絡を」

 基本的に教会においてもっとも地位があるのは司祭だ。聖女と崇められようとも、彼女の身分は一修道女に過ぎない。彼がシファを敬称をつけて呼ぶのは、奇跡に敬意を払っているからだ。――――あくまでも表向きの理由はそうなっている。

 が、もしこの教会を小さな王国にたとえたなら、彼女は間違いなくその王国の王であり、彼は忠実な臣下だった。そして、彼女が口にした二人の男の名前も同様に。


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