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二十三区は別名娼館街と呼ばれている。公娼、私娼を合わせてノーサスの八割近い娼婦と男娼がこの区で仕事を行なっている。立ち並ぶ建物も多くが娼館か、連れ込み宿だ。そのため土地柄、診療所も多い。体が資本の娼婦たちは、その分だけ身を危険に晒す確立も高いのだ。
何軒もある診療所の中でアシルが選んだのは、最近開業したばかりの若い医者がいる病院だった。少しばかり治療費は高いが、腕がいいと娼婦たちが噂をしていた。娼館にはそれぞれ契約をしている診療所や医者がいるが、イルヴァの館のそれは白髪頭の禿げ上がったいかつい顔をした中年男で、治療が乱暴だと嫌がられていた。どうせなら腕のいい医者に見てもらいたかった。
診療所は区の中心からは少しばかり離れた場所にあった。こじんまりとした小さな建物だったが、中は清潔で明るく、娼婦らしき客が数人待合室に並んでいる。ルルゥはその中の何人かと顔見知りらしく、挨拶を交わしていた。
三人はジネットを真ん中にして、並んで座った。
「病院って言う割りに、洒落たところだな」
待合室を見回してルルゥが言った。壁にかかった田園風景の絵や、窓辺に飾られた花を見て言っているのだろう。
順番を呼ばれてアシルは姉を連れて診察室に入った。
デリック・チェスターはまだ二十代半ばの若い医師だった。
「こんにちは。今日はどうしました?」
はしばみ色の瞳を優しく細め、ジネットと向かい合う。恥ずかしがりやの姉が自分の病状を説明するよりも早く、アシルが口を開いて説明する。
「もう二週間近く熱が下がんないんだ。それに食欲もないし、ずっと寝込んだまんまで。先生、姉ちゃん大変な病気なのかな!」
「それを調べるために、ここへ来たんでしょう? 大丈夫ですよ、医者として出来る限りのことをしますから」
チェスター医師はカルテを手に取ると、問診を始めた。体調のことから、年齢や職業のことも尋ねてくる。
「どんな仕事をしているかによって、かかる病が違ってくることもあるんですよ。例えば煙突掃除夫なら肺病、娼婦や男娼なら性病というようにね。職業病とも呼びます。ですが、ミス・オーリクは違うようだ」
彼はふむとカルテをしばらく睨んだ後、いくつかの器具を取り出してジネットの口の中を覗いたり、手の脈を測ったり目を覗き込んだりした。その間、アシルはすぐ背後に控えて、胸の前で両手を握り締めていた。不安と心配で、胸が痛くなりそうだった。
優しい曲線を描く若き医師の眉が潜められる。
「これは・・・・・・最近流行っている流感の類でしょうね」
「そんな!」
アシルは言葉を失った。毎冬になると猛威を振るうこの病は、そのたびに多くの死者が出て、墓を持たぬ貧しいものたちの死体が路地に積み上げられる。そんな光景をアシルは何度も目にしてきた。なによりも二人の両親は、数年前の世界的大流行の折にこの病にかかって死んだのだ。
そういえば、今日会った娼婦も言っていた。最近娼婦たちの間で風邪が流行っていると。流感は初期は風邪の症状と変らないため、見分けがつきにくいのだ。医者に行くのが遅れて死んだものも多いという。
アシルは姉を見た。ジネットの白い頬が血の気を失っている。膝の上で硬く握り締められた手が微かに震えていた。
「で、でも先生、姉ちゃんはそんなに熱も高くないし、ひどく寝込むほどでもないだ。咳もないし、吐き気もないし、な、姉ちゃん? 父ちゃんや母ちゃんたちのときとは違うよな?」
何かの間違いであって欲しかった。しかし、チェスター医師の眉は申し訳なさそうに下がったまま、首を横に振る。
「この病気は、かかり始めはとても軽いんです。まるで風邪のように。ですが、すぐに病が体の奥に根付いて、症状を重くする」
両親のときもそうだった。最初は父親に症状が現れた。軽い風邪だと思っていた。よくある悪寒と微熱で始まり、咳がひどくなって吐くようになった。それでも無理して働いていたらついには倒れて寝込むようになった。父が倒れて三日後に、看病をしていた母が同じ症状で倒れた。父が倒れた時点でアシルとジネットは近所の家に預けられていた。母の友人が様子を身に家を訪ね、二人が寝台の中で冷たくなっていたのを発見したのだ。
どうしよう。どうしよう。アシルは姉を見る。両親が死んでから二人は身を寄せ合うようにして支えあって生きてきた。両親を失った下層区の子どもが、真っ当に生きるのは並大抵のことではない。その苦労を二人で分かち合ってきた。アシルにとって姉は、生きる全てに近い。
「せ、先生! 姉ちゃんを助けてください! 俺にはもう姉ちゃんしかいないんです! お願いします。姉ちゃんを助けてくれるなら、俺どんなことでもしますから!」
涙が零れそうになるのを必至で堪えて、アシルは叫んだ。もし姉を助けてもらえるなら、彼の足元に額づいて懇願しても構わない。
「アシル・・・・・」
ジネットの目も潤んでいる。
そんな二人のやりとりをじっと見ていたチェスター医師は、姉弟とは打って変わって唇に穏やかな笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ、お二人とも。最初に言ったはずです。医師として出来る限りのことをするとね。幸いミス・オーリクの症状はまだ軽い。これなら手遅れになる前に回復できますよ」
「ほ、本当ですか!」
その言葉は希望の光だった。アシルとジネットはお互いの顔を見合わせる。飛びつく以外に方法はなかった。
「お、お願いします!」
アシルは二つ折りになるほど、腰を曲げて頭を下げた。