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王国トラディ・ベルの首都であるノーサスの街は花のような形をしている。中央に雌しべのように王城を戴き、それを守るように雄べの塀が並ぶ。そこから花弁のように放射状に街が区画分けされているのだ。それぞれの区画には番号が振ってあり、全部で三十七ある。数字が早いものほど古くからある区画で、そこには上流階級者たちが住まう上層区と呼ばれていた。逆に数字が多くなればなるほど、そこで暮らす人々の貧しさと環境の劣悪さが増す下層区だ。
アシルの暮らす二十三区の端は下層区でも中級に位置した。
低所得者向けの集合住宅の、古びた石作りの建物の一室が、アシルの家だ。「ただいま」と声をかけて家の中に入る。玄関ホールや廊下などという洒落た空間は存在せず、入ってすぐがキッチン件食堂件居間であり、応接間を兼ねた部屋になっている。もっとも部屋と呼ぶのもおこがましいほど狭く小さな空間だ。キッチンの奥にはもう一つ部屋があり、そこは日中でもほとんど日が当たらない。姉弟共同の寝室だった。
姉はキッチンのテーブルに腰をかけていた。アシルが帰ってくるとやつれた顔に笑顔を浮かべたが、その後ろにルルゥがいることに気付くと慌てた様子で立ち上がった。
「まあ、なんてこと!」
ジネットは叫んで、寝巻きの肩に羽織っていたショールを胸元にかき寄せた。白い頬に朱が走る。
「ア、アシル、お客さまを連れてくるときは最初に言って頂戴! ああ、しかも、紫菫の君をこんな貧乏家に招待するなんて、あり得ないことだわ。わたしったら、寝巻きのままなのに」
よほどルルゥの登場に驚いたのか、ジネットは立ち上がったままおろおろとしている。アシルは呆れる。
「姉ちゃん、少しは落ち着いたら?」
「ジネット、こんにちは。もうずっと具合が悪いって聞いたからお見舞いに来たんだ。俺こそ突然尋ねて、悪かったよ」
ルルゥは客に向けるような柔らかで優しい微笑を浮かべた。うら若き乙女はそれだけで、頬の熱を高くする。立ち上がって右往左往している少女の華奢な肩に手をかけ、そっと椅子に座らせる。
「大丈夫、落ち着いて。どんな格好でも君は充分素敵だからさ。それより、体は大丈夫なのか?」
「あ、ええ」
彼女はこくりと頷いた。それから少し苦笑する。
「このところずっと微熱が続いてるの。たぶん風邪が長引いてるのね。ほら、ノーサスの冬は厳しいから」
「何言ってんだよ、姉ちゃん! ノーサス(ここ)には生まれた時からいるんだぞ、いまさら冬になったからってそんなふうになるなんて、おかしいよ。もう、二週間なんだぞ、二週間!」
「アシルは心配しすぎなのよ。わたしだって風邪ぐらいひくわ」
「ああ、そうだな。どんな人間でも生きてる限り、体調を崩すことぐらいあるさ。アシルは、すごく姉思いってだけだ。でも、その気持ちは俺もよくわかるよ。こんな可愛い姉貴がいたら、大事にしたくなるもんな」
過剰なリップサービスにアシルが呆れると同時に、姉が今まで以上に顔を紅くして、ついには俯いてしまった。
紫菫の君と呼ばれるルルゥは、客達に大人気なだけでなく、同じ娼婦仲間や下働きの者達からも好かれていた。それは、高級男娼という、貴族と対等に渡り合える身分を決してひけらかすことはなく、むしろ客たちがいない場では下町育ちらしい粗野さをまったく隠そうとしないからだった。今も、ジネットの向かいの椅子にどかりと腰を落すと、泥で汚れた靴を無造作に投げ出している。
「姉ちゃん、今日は約束の病院だろ。支度はすんだの?」
「あ、そうね。わかったわ。アシル、わたしの支度が終わるまで、紫菫の君にお茶をお出ししてね。右引き出しの奥にある、お茶っ葉よ」
そういい付けてから、奥の寝室に引っ込む。右引き出しの奥にあるお茶っ葉は、以前姉が友人になった娼婦から貰ったという、下町では中々手に入らない高価な茶葉が仕舞ってある。姉弟はそれを特別な客が来たときに使おうと決めていた。姉にとって、ルルゥは特別な客に分類されるらしい。
そのことを少しばかり複雑に思いながら、アシルは茶を入れるために湯を沸かした。
「狭いけど、いい部屋だな」
部屋の中をくるりと見回していたルルゥが言った。アシルは振り向く。友人は本心から言ってるらしく、紫の瞳が柔らかく細められている。狭くはあるが手入が行き届いているのは姉がこまめに掃除をするからだ。しかし家具は少なく、申し訳程度に飾り小物が窓辺に並んでいる程度だ。
「ルルゥの暮らしてる部屋に比べたら、天と地だよ」
彼の部屋に入ったことはないが、噂では大貴族の部屋と並んでも遜色のない豪華な設えだという。
「あれは俺の部屋じゃなくて、仕事部屋だ。俺も昔は、こういうところに住んでた。いや、もっとひどかったかもな」
アシルが入れたお茶がなくなる頃、ようやっと姉の支度が終わって部屋から出てきた。取り立てて実を飾るようなものなどない暮らしだが、それでも姉は美貌の少年の前で少しでも良く見せようと努力したらしかった。お気に入りのスカーフを首に巻き、髪を丁寧に何度も梳いたのか、いつもはくるくると渦を巻いている髪が綺麗に波打って肩に落ちていた。しかし、恥ずかしそうに笑みを浮かべた頬は痩せて頬骨が浮き上がり、唇はかさかさに乾いてしまっている。
「姉ちゃん、大丈夫?」
アシルは駆け寄って姉の腕を掴んだ。
「ええ。平気よ」
気丈に振舞ってはいるが、顔は青白い。ルルゥもすぐに隣で支えてくれる。姉は恥ずかしがったが、結局は大人しく手を引かれた。
三人は乗合馬車に乗り込み、診療所に向かった。