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ノーアという名を主から貰った白猫は、路地を少し進んだところで足を止め、一度背後を振り返った。あの二人の男の姿は、もう見えない。ノーアは、塀の上へ飛び上がり、隣の敷地へ降りる。手入れを忘れた庭には、屑ゴミが山盛りに積み上げられ、足の踏み場もない。それを器用に避けて進み、さらに二つの家の敷地を無断で横断する。途中小さな子どもが猫ちゃんと手を伸ばしてきたが、ノーアはつんと顎を逸らして無視をした。
路地に降り立ち、光へ向かって歩く。大通りに出た。忙しなく人々が行きかっている。その足元をすり抜け、次の路地に飛び込む。そこをさらに真っ直ぐに進むと、エル・タリア女神教会の裏手に出る。箱馬車が壁に身を寄せるようにして、止まっていた。ノーアは真っ直ぐに馬車に近づき、扉の前で小さく鳴く。内側から扉が開く。馬車の中へ飛び込み、愛しい主の膝へ真っ直ぐに駆け寄る。が、そこにはすでに先客がいた。自分の相棒だ。黒い毛皮のノーユが気持ち良さそうに主の膝の上で目を細めている。主の白く長い指が、ノーユの耳の後ろを掻いていた。ノーアは唸り声を上げた。仕事をしてきたのは、ノーアだ。ご褒美をもらえるのは、ノーアだ。
すると、ノーユの耳を掻いていた白い指が離れ、ノーアの頭を包み込んだ。
「いい子だ、ノーア」
頭を優しく撫でられ、ノーアは心地よさにうっとりとする。自然に喉が鳴った。
「さて、キラ、どうするよ、この事態はについて。これはてめぇの失態じゃねぇのか? あの探偵に素性がばれちまうなんてさ」
主が向かいに座る黒い毛色の少年を笑いながら睨む。少年―――――キラ・シジョウ、正確には四条綺羅というらし―――――はつまらなそうに薄くカーテンを開けた小窓から外を見ていた。ノーアは人間の美醜についてほとんど興味はなかったが、主がずば抜けて美しい人間だということは理解している。そして、目の前の少年も、主には多少劣りはするが、人間たちの間では美しいと形容される容姿の持ち主だということも知っていた。
「まだ知られたわけじゃない」
氷のように冷たい声音が、短く反論する。
「だが、あのリトル家の娘と一緒にいたことは知られてんだ。そっちから割れるかもしれねぇ」
まるでわざと事を大きくするような言い方だと、ノーアは思う。主は、キラをいじめているのかもしれない。少なくとも、主はこの男が嫌いだ。見ていてわかる。
黒い瞳が、ちらと動き主を一瞥した。表情に変化はない。
この男は常日頃から、人形のようだ。目も口も眉も、ほとんど動かさない。ときどき瞬きもしていないんじゃないだろうかと思うときもある。
「だったら、口封じすればいいだけだよ」
平然と返された言葉に、主の美しい眉が顰められる。不服そうに鼻を鳴らし、大きく足を組み替えた。
「そんなことを、あの方が許すかねぇ」
主の顔は、先ほどの口調が嘘のように渋面を作っている。警察関係者に、自分達のことが勘付かれつつあることをやはり懸念しているのかもしれない。しかし、ノーアはキラの言うとおりだと思う。
邪魔をする奴は、処分すればいいことだ。主は何を考えているのだろうか。
「まあ、でもさ、しょうがないよな。あの方の命令抜きにして、俺達はあの方を守らなきゃならねぇんだからさ。殺しちまっても」
紫色の瞳が緩く細めれ、それはキラへと向けられる。キラは何も言わず無言で、窓の外へ視線を向けた。




