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 どれほど駆けただろうか。もうそろそろ家の近くというところで、アシルはルルゥに腕を掴まれた。荒く息をつくアシルに比べ、ルルゥは同じだけの距離を走ったはずなのに冷静な顔をしている。

「おまえ、どうしたんだよ。あんなこと言って、聖女様に失礼だろ」

 友人の声には非難が込められていた。アシルは唇を噛む。みんな騙さている。そう思った。

 聖女と呼ばれる少女の、上辺だけの優しい微笑と仕草に騙されている。その裏にどれだけの欲望や利己が潜んでいるのか気付きもしないのだ。きっとアシルだけではないはずだ。下層区にはお金がないばかりに医者にかかれない病人は沢山いる。彼らが最後に縋るのは、神の奇跡しかない。しかし、あの聖女が貧乏人を看ることはない。なら、アシルや姉のように、絶望と失望に打ちひしがれて泣いているものがたくさんいるはずなのだ。

 なのに、それに気付くもののなんと少ないことだろう。悔しくてならなかった。見せ掛けだけの微笑を浮かべる聖女が、それに騙されている友人が。

「本当のことを言っただけだ。あの女は薄汚い偽善者だ」

 吐き出すように、アシルは言った。とたんルルゥは顔を顰めたが、無言で掴んでいた腕を引っ張った。

「な、なんだよ!」

 とっさに振り払おうとしたが、彼の手は驚くほど強く、ずるずると路地の影に引っ張りこまれる。壁に背を押し付けるように立たされ、正面には真剣な顔をした友人が迫るようにして立った。

「理由を言えよ」

 怒っているのだ。聖女を侮辱されて、ルルゥはアシルを怒っているのだ。そう感じた。

 イルヴァの館は貴族も訪れる高級娼館の一つだ。ルルゥはそこで一番の稼ぎ頭でもあり、彼自身が最高級男娼だ。彼が相手をするのは、莫大な資産を持つ富裕層の人々か貴族達だ。そのため求めらるのは美貌だけでなく、それ相応の気品と立ち居振る舞い、教養や芸術だった。今でこそ下町育ちの少年のような言葉遣いでいるが、仕事となれば彼は貴族の令息にも負けぬほど上品に振舞えることを、アシルは知っている。

 アシルの目から見て、ルルゥは雲の上のような相手だった。数ヶ国語を操り、政治にも秀で、歌や踊りを本職顔負けに演じることが出来る。

 それほど頭の良いルルゥでさえ、あの偽聖女には騙される。

 当然といえば当然かもしれない。殉血の聖女は、いまや下層区で暮らす人々にとっては救いの存在だ。日々の貧しい暮らしに疲弊し夢も希望も持たない人たちにとって、彼女がもたらす奇跡は、闇を照らす光と重なった。聖女に何かをしてもらおうと思うのではない。この世に神がいるのだという証拠が、彼女なのだ。信仰は、固く信じるものにとっては救いになる。

 まさか、ルルゥがその幻のような光を信奉しているとは思わなかった。

 ぐっと押し黙ったアシルに、ルルゥの眉が苛立ったように寄せられる。

「アシル、話してくれなきゃ、どうしておまえがあんな態度をとったのかわかんねぇだろ。俺はおまえが理由もなく、あんなこという奴だとは思ってねぇよ。だから、なにがあったのか話してくれよ」

「・・・・・・ルルゥは聖女の味方だろ」

「聖女の奇跡を俺は信じてるからな。だけど、アシルのことは友達だと思ってるぜ」

 アシルの気持ちをほぐすためにか、ふっと紫の瞳が緩められる。輝かんばかりの美貌が優しい微笑を浮かべれば、それは教会の女神像にも勝る。アシルは、友人相手とわかっていても頬に熱がこもるのがわかった。

 慌てて俯いた。ややして、アシルは自分と姉の身に降りかかった不幸と聖女の行いをすべて彼に話し始めた。優秀な娼婦や男娼は、話術以上に聞術も優れていなければならないというが、確かにルルゥはアシルの話を引き出すのが上手かった。

「なるほど、それでアシルは聖女を恨んでいるわけだな」

「奇跡の聖女なんていいながら、お金持ちにしか血をくれないんだ。確かに奇跡の力が本当にあるのかもしれないけど、あんなの聖女なんかじゃないよ。金に汚い魔女だ」

 アシルは吐き捨てる。

「でも、聖女はジネットの病気はたいしたことないって言ったんだろう」

「でも、姉ちゃんはもう二週間も寝込んでんだ! 食事もほとんどとれなくて、寝てばっかりだ。熱だってあるし、それをたいしたことないなんてよく言えるよ! あの魔女は俺達が寄付を払えないから、血をくれないんだ。雑誌にもそう書いてあった」

「三流ゴシップ誌だろ」

「でも、書いてあることは本当だった」

 聖女は姉のために血をくれなかった。その事実はどう言い繕おうとも代わらない。ルルゥは複雑そうに顔を顰めたが、結局反論することは出来なかったようだった。渋々というように頷くと、アシルの腕を掴んでいた手を放した。落ちていたフードを被り直し「行こう」と促す。

 薄暗く饐えた匂いのする路地から抜け出して、日の光が当たる大通りに出る。数歩も歩かないうちに、ルルゥが声をかけられた。

「あら珍しい、ルルゥがこんなところを歩いてるなんてさ」

 胸元大きく開けた濃い色のドレスを着た年増女だった。厚くぽってりと塗った口紅が昼間の太陽の下では、ひどく場違いだ。一目で娼婦とわかる。しかも、ルルゥのような娼館に属しているような公娼ではない。路地の角に立って客を引く街娼だ。

 娼館といってもピンキリあるが、ルルゥが最上級の館に身を置く高級男娼なら彼女ははした金で身を売る最下級の娼婦だ。街娼は店に属さないかわりに、売り上げノルマが存在せず得られた稼ぎは全部自分のものになる。その代わり、街娼を買うのはもっぱら店にも入れない労働階級者たちだった。

 街娼は安価で短時間の快楽を売る。彼女達は時として一晩に数人もの客の間を渡り歩く。そうしなければ生活できないからだ。

 女は気だるげに壁にもたれていた手を放し、こちらに近づいてくる。ルルゥは顔を顰めた。彼の知り合いのようだった。

「なんでわかったんだよ、顔を隠してたはずだぞ」

「端っこから見事な銀髪が覗いてるよ」

 女は腰をくねらせるようにして笑い、白い手を持ち上げてフードの端から一房だけ零れ出ていた銀色の髪を摘んだ。

「この界隈でこんな見事な髪の色してんのはあんただけだからね。素性を隠すつもりなら、きちんと変装しなきゃ意味がないよ。もっともその格好を変装って呼べるかどうか怪しいもんだけど」

「うるせぇな。俺の勝手だろ。客連中に見つからなきゃいいんだよ」

 ぱちんと音を立てて女の手を振り払う。女は「あらやだ、冷たい子だねぇ」と特に傷ついたふうもなく赤い唇を歪めて笑った。そして、ふとアシルのほうに視線を向けて、鼻を鳴らした。

「あんたいつから趣旨替えしたのさ? こんな子どもなんてさ。あんたにはもっと肉厚のあるあたしみたいな女の方がいいよ」

 しなだれるように抱きつこうとした腕をルルゥは素早く交わし、すぐに否定した。

「アシルは友達だ。こいつの姉貴が病気だから見舞いに行くんだよ」

「おや、そりゃあ気の毒にねぇ」

 ちっともそんなふうに思ってない声で、女はアシルに笑いかけた。アシルはふいとそっぽを向く。自分がからかわれたことには、最初から気付いていた。女は肩を竦めたが、すぐにルルゥに向き直ると、言った。

「最近は風邪でも流行ってんのかねぇ。あたしの仲間たちもぱたぱた寝込んじまってさ。ここのところ街頭に立つ女達の数も減っちまった。まあ、おかげでこっちは客が回ってくるから助かるんだけどね。ノーサスの冬は厳しいからさ、春も近いけど、用心に越したことはないね。ま、豪華な部屋に住んでるあんたにゃ関係ない話しかも知れないけどさ」

「お互い様だよ。俺もあんたも、結局、体売って金稼いでる身分にはかわんねぇだろ。あんたこそ、体を大事にすんだな。もう若くはないんだしさ」

「まあ、言ってくれるじゃないか」

 女はけらけらと笑うと、すうと息を吸い込んだ。それから、ふと目を細めて、視線を足元に泳がせた。

「実はさ、ちょっと人を探してるんだ。ドロシーって子なんだけどね、茶金色の髪した可愛いなんだ。こないだから体調が悪いって言っててさ、そうしたらふつりと顔を出さなくなったんだ」

「部屋で寝込んでるんじゃないのか?」

「だといいんだけ、あの子病気の母親の面倒見ながら生活してるから、そうそう休んでられないはずなんだよ。薬代だって馬鹿になんないし、兄弟もいるっていってたから。どうしたんだろうって、ちょっと気になってね。あの子顔がいいから、少し前にマダム・イルヴァに館に来ないかって誘われてたんだよ。もしかしたら、もう店入りしてんのか気になってさ」

 どうやらそのことを尋ねたくて、ルルゥを呼び止めたようだった。彼女は街娼の自分が館に足を踏み入れたところで門前払いを喰らうのは眼に見えているから、と説明した。

 しかしルルゥは首を振る。

「悪いが、俺は知らねぇな。アシルは知ってるか?」

「・・・・・最近新しい娼婦が入ったって話しは聞いたことないけど・・・・・・・」

「そうかい・・・・・」

 女は眼に見えてがっかりする。よほど心配なようだった。ルルゥがそれを茶化す。

「なんだよ、珍しいな。あんたが他人の心配なんてさ」

 女は少しだけ焦った様子で、手を振った。

「あの子あたしの死んだ妹に似てるからさぁ」

 誰も好き好んで体を売りたいわけがないのだ。ここにいたる間には、さまざまな苦労や哀しみがあったのだろう。アシルが両親を失くしたように、目の前の女も大切な人を失っているのだ。そう思うと、さっきまで派手で下品な女だと思っていた気持ちが嘘のように消えた。

「もしかしたら娼婦じゃなくて、店の下働きをしてるのかも。マダム・イルヴァがときどき新しく入った女の子達を娼婦じゃなくて、小間使いや下働きなんかにすることがあるんだ。その方が、いいからって」

「ああ」

 女はぱちぱちと瞬きをして、呆然としたようにアシルを見た。それからくしゃりと笑った。さっきまでの媚を含んだ笑みではなく、今にも泣き出しそうに歪んだ笑みだった。

「そうだね、あの子にとっちゃその方がずっといいことだろうね。あんた、あの子のこと探してくれるかい? かわいい子なんだ。まだ十四だったと思うよ。胸元に星の形した痣があるから、すぐにわかるから」

 女は自分の胸元を指差す。

「もし見つけたら、ときどきあたしのところへ顔見せにおいでよって伝えておくれ。元気にしてるか知りたいから」

「わかった」

 アシルが頷くと、女はアシルの手をとって微笑んだ。それはお日様の光に似合う綺麗な微笑だった。


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