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オーウェンが連れてこられたのは二十五区にあるエル・タリア女神教会だった。教会とはいっても、ずいぶんと狭苦しい敷地に、小さな聖堂とその奥にさらに小さな宿坊と物置小屋らしきものがあるだけのものだ。教会のシンボルともいえる聖堂は荒く削られた石組のもので、明り取り用の鎧窓が申し訳程度にいくつか取り付けられているだけだった。おかげで全体的に薄暗い。しかし、信者は数多くいるらしく、大きく開け放たれた聖堂の扉を、先ほどからひっきりなしに人が出入りしている。
聖堂の中に入ると、どうやら祭儀の最中らしく、祭壇の前で司祭服を着た若い男が、説教をしていた。小さな教会の中はほとんどが信者で埋まっていたが、かろうじて最後尾の席が空いている。オーウェンとフェイシスはそこに腰を下ろした。
信者は真剣な顔で司祭の言葉に耳を傾けている。まるで彼の言葉の中に、日々の苦しさから抜け出すための方法が隠されているとでもいうかのように。オーウェンは基本的に神の存在を信じてはいない。教会へは幼い頃に何度か行ったことはあったが、それも信仰のためではなく、祭りの時に配られるお菓子欲しさにだった。
神は何故貧しさに死ぬものをお許しになるのだろう。どうして貧富の差をおつくりになるのだろう。罪に手を染めず、悪を遠ざけ、日々を一生懸命に働いているというのに、少しも楽にならない生活。そこにはいったいどんな意味が込められているというのか。神がいたら、一度聞いてみたいものだ。
オーウェンにとって、目の前で真剣な表情で神に祈る人々の存在は、奇異なものでしかなかった。神がいったい、なにを救ってくれるというのか。そんなことを考えている自分が、教会の中にいるのはひどく居心地が悪い。
そもそも、オーウェンはなぜフェイシスが自分をここへ連れてきたのかわからないままだった。
「死に行くものが最後に頼るのは神だ」
不意にフェイシスが囁いた。少しばかり意外な気持ちになる。
「フェイが神を信じているとは思わなかった」
言いながら、声に皮肉な響きがこもってしまったと自覚する。ちらと横目に青色の瞳が向けられ、くすりと笑われた。心の中を見透かされたようで、オーウェンは憮然とする。
「俺じゃない。世間一般論だ。医者にまで匙を投げられれば、他に頼るものは奇跡しかないだろう?」
「ここに奇跡があるというのか?」
「信者達は、そう信じている。そして、ここに担ぎ込まれたナイト・クイーンの中毒患者たちもな」
オーウェンは瞠目した。幼馴染の横顔を見る。
「なんだって?」
「この一ヶ月の間に、ナイト・クイーンで死亡したものが五人、この教会から出ていると報告を受けている。どうやら家族が、この教会を頼って連れてきたらしい」
オーウェンは前を見た。祭壇には豊穣の女神エル・タリア像が据えられている。その手前で説教をするのは、自分とさして歳の変らない若い男だ。優しげで穏やかな風貌に、歌うような流麗な響きの声をしている。確かにあの外見に信者は穏やかさを求めるかもしれないし、一時の安らぎを見つけるのかもしれない。
しかし、奇跡とは―――――?
「彼じゃない」
まるでオーウェンの心の中を読んだような言葉だった。
「奇跡を起こすのは彼じゃない。聖女だ。正確には殉血の聖女というそうだ」
その名は、聞いたことがあった。ケイトお気に入りのゴシップ誌に何度か取り上げられていたのを目にしたことがある。血を持って人の病や怪我を治す奇跡の力の持ち主だとされ、無償で人々の治療をしている聖女が下層区にいるという。果たしてその奇跡は本物か偽物かというような内容だったが、詳しく目を通したわけではないので結論がどちらだったか残念ながら記憶にない。上流階級者にも信者を持ち、無報酬とは言いながらも、多額の寄付金を得ているとい話だが、オーウェンは聖堂を見回して、いったいその寄付金はどこに使われているのだろうかと考えた。
興味を持ったことはなかったし、正直そんな神がかり的な奇跡を信じたことはなかった。だが、聖堂を埋め尽くすような信者の数に、聖女の奇跡は多くの人々に信じられているのだということはよくわかった。
「フェイの話しからすると、どうやら聖女はナイト・クイーン中毒者を救えなかったんだな?」
「オーウェンは奇跡を信じないのか?」
「フェイは信じるのか?」
反対に切り返すと、彼は片眉を上げた。皮肉げに唇を歪める。ふいと顎をしゃくるようにして、祭壇を指した。
「あそこにいるのが、件の聖女だ」
オーウェンはそちらを見た。祭壇の脇にまるで身を隠すようにして、純白のダルマティカとウィンプル姿の女が立っている。遠目なためと俯いているせいで、容姿はわからない。
「本物だ」
耳元でフェイが囁いた。オーウェンは瞠目する。
オーウェンの知る限り、彼は誰よりも現実主義者だ。
「三度目に死者が出たときに、念のため警察から調査が入ったんだ。もしかしたら、教会が治療を隠れ蓑にして人を殺しているんじゃないかとな。そのときに、聖女の奇跡というのを警官の多くが目の当たりにしている。俺は実際に見たわけじゃないが、部下が何人も本物だったと報告を入れている」
オーウェンは再び聖女を見た。司祭の説教が終わる。彼は両手を大きく広げ、感謝の祈りを捧げると、
「それではこれより聖血の秘跡を執り行いましょう」
それまで脇に控えていた聖女が、すっと前に出てきた。ざわざわと信者が騒ぎ出し、中には聖女に向かって祈りを捧げるものまで出始めた。何人かが立ち上がって聖女の前に列を作る。
「いったい、なにが行なわれるんだ?」
オーウェンはこそりとフェイシスに尋ねる。
「聖女の奇跡のお披露目さ。並んでいるのはみな病人や怪我人だ。彼らに血を与えて、治療をするんだ。もちろん、無報酬で」
オーウェンは眉根を押せ、聖女を見る。
無報酬で、そうはいいながらも寄付金だと言われれば受け取るのだろう。フェイシスが言うには、聖女の血を貰うには前もって予約を入れておかなければならないそうだ。そのときにどんなやりとりがあったかなど、他人には知る由もないではないか。寄付という名の報酬を約束させているのかもしれない。少なくとも、病気や怪我から救われるなら、己のために家族のために、全財産を投げ出すものもいるはずだ。
聖女の奇跡が本物にしろ、偽物にしろ、オーウェンは彼女達に悪感情を覚えた。
聖女の傍らに、水を張った杯とペーパーナイフのような小さなナイフを持った司祭が立つ。聖女は右手を杯に浸し、濡れた手で祈りの印を結ぶと、ナイフを手に取り、自分の指の先を切りつけた。オーウェンの位置からは遠くて血の色は見えなかったが、前の方に座っている信者達が小さな悲鳴をあげているから、本当に切り付けたのだろう。 聖女がその手を掲げる。列の一番前に座っていた信者が、聖女の前に進み出た。聖女は切りつけた手を、信者の唇に押し当てる。ほんの数秒。指は離され、信者が立ち上がりその場を離れ、二番目に並んでいた信者が聖女の前に進み出る。その繰り返しだ。ときどき悲鳴のような歓喜のような声が湧き上がるが、オーウェンの位置からはなにが起きているのかよく見えない。
思わず身を乗り出しかけたオーウェンの身体を横から伸びた手が押さえた。
「しばらく待て。約束をとりつけてあるから、祭儀が終われば話が出来る」
「あれは、本当に治療をしてるのか?」
オーウェンは疑い深く尋ねた。フェイシスが頷く。
「ああ、そうだ。彼女の血を体内に取り込むと、何故か病気や怪我が治る。原理はわからんがな。彼らいわく、奇跡、ということらしい」
「だけど、ナイト・クイーンの中毒患者は治らなかったんだろ?」
「なんでも毒性が強すぎて、自分の血ではどうすることも出来なかったそうだ」
「都合が良すぎる」
オーウェンがそういうと、フェイシスが苦笑した。
奇跡といわれるものの中には、インチキだと呼ばれるものも少なくない。奇跡と呼ぶなら、末期の患者を治せて初めて奇跡と呼ぶのではないかと、少しばかりオーウェンは意地悪く思った。
「とにかく、後でその聖女と話が出来るから、ここで大人しく待っていろ」
まるで小さな子どもを諭しつけるような言い方に、オーウェンは少しムッとしたが、渋々椅子の背もたれに深く身を持たせかけた。列はずいぶんと長く、終わるまでには当分かかるだろう。聖女はときどきナイフを取っては指先を傷付けることを繰り返している。
(痛くないのか・・・・・)
そんなことの方が気になった。
退屈をもてあまし、信者の顔を一つ一つ見回す。多くは下層階級者達だが、中には一目で身形がよいとわかるものも混じっている。高くい上げた髪に、質素さを演出してはいるがきっと目の飛び出るほど高価なドレスを身に纏った夫人、傍らにいるのは従僕かなにかだろう。
ふと、その夫人の一つ前に座る黒髪の少年に目が行った。黒髪? 一拍遅れてぎょっとする。
オーウェンは隣のフェイシスの腕を力いっぱい掴んでいた。
「いたたたっ、オーウェン?」
「いた、彼だっ! 彼だよ、フェイ!」
「は? 彼って、なんだ? なにが彼なんだ? よくわかるように説明してくれ?」
オーウェンの手から腕をもぎ取りながら、フェイシスが顔を顰める。よほど痛かったのか、掴まれた部分を手のひらで撫でさすっていたが、オーウェンは気付かない。
食い入るように、その少年を見る。ここからではかろうじて横顔が見えるだけだが、それでもあの顔は見間違うはずがない。あの美貌。オーウェンは自分自身を落ち着かせるため、三度深呼吸をした。そしてゆっくりと口を開く。




