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サイモン・ブリッチは賑やかな酒場で、一人座って酒を飲んでいた。入り口から一番遠く角奥にあるこの席は、店内がぐるりと見渡せる位置にありながら、裏口が近いこともあって客はあまり近寄ってこない。立て付けの悪い戸口から、常に隙間風が入ってくるのだ。
ここは男の定位置だった。そして、ここが男の仕事場でもあり、店舗だった。もちろん、この店の持ち主にはないしょで開かせてもらっているのだが。
夜半を過ぎた頃だろうか。客の足が少しばかり途切れたところへ、一人の若い男が店にやってきた。入り口で立ち止まってぐるりと辺りを眺め、サイモンを見つけて真っ直ぐにやってくる。すらりとした長身に物静かな印象を与える整った顔立ちの男は、青灰色の瞳をサイモンに向け、無言でおまえかと、問いかけてくる。サイモンは鷹揚に頷き、手前の席を指差した。
男が椅子に座るとき、どこからか鈴の澄んだ音がした。その音に吸い寄せられるように、サイモンの視線が男の全身を値踏みするように舐める。
男は労働者の格好をしていたが、その顔立ちや立ち居振る舞いは学生のようだった。サイモンの顧客には、学生も多くいるので、別段そのことを奇妙だとは思わなかった。サイモンの顧客には人目を忍ぶものが多い。大方いい所のお坊ちゃんが、下町風に変装しているのだろうと思った。
「初めての顔だな」
サイモンが言うと、彼はちらりと店内を見回した。それが何かに怯えているように見えて、男の小心振りに笑う。
「大丈夫だ。だれも気付いてやしねぇさ」
男の瞳が警戒するようにサイモンを見た。はんと、鼻で笑い飛ばす。
「気の弱いこって。そんなに他人の目が怖いなら、さっさとすませちまおう。なにが欲しい?」
男はしばらくの間サイモンを見つめていたが、
「ナイト・クイーン」
「ああ、あれか。ははっ、あれは言っておくが、高いぜ。なにしろ、かなりの希少品だからな。ただし効果は他のどの薬よりも、すごい。それは保証する。一瞬で昇天できる代物だ」
サイモンは嫌らしく笑いながら男の顔を下から覗き込む
裏と表。
誰しも、表に見せる顔の裏にはもう一つ、他人に見せることのない、他人から必至で隠しておきたい顔がある。お綺麗なドレスに身を包んだ粛然とした令嬢も、貞淑な夫人も、ご立派な肩書きを背負った立派な紳士も、みんな裏には嫌らしく歪んだもう一つの顔を持っているものだ。
そして、サイモンの仕事は他人の裏の顔をのぞき見ることの出来る仕事だ。今目の前で物静かそうな顔をした端正な顔立ちの男も、一時の快楽を求めてサイモンから法律に触れる薬物を買おうとしている。ナイト・クイーン。夜を統べる女王と呼ばれるこの薬は、酒に混ぜて経口摂取することで効果を発揮する。通常他の薬は摂取してもすぐには効果が出ず、また個人によって薬の効果の強弱も変化する。しかし、ナイト・クイーンは他のどの薬よりも簡単な摂取方法と少量での効果が望め、なおかつどの薬よりも強い多幸感を得られる上、薬物摂取には必ずといってつき物の後遺症や依存性が少ないということで、奇跡の薬だと言われていた。すなわち、やりたいときに薬を摂取し、やめたくなれば簡単にやめられるそのお手軽さと安全性が、人気を呼んだ。しかし、ナイト・クイーンは需要に対して供給が極端に少なかった。そのために、薬は馬鹿みたいな高額な値段で売り買いされているのだ。
この男は幸運だとサイモンは思った。つい先日諸事情でナイト・クイーンの卸し元が潰れてしまったため、今手元には一つきりしか残っていない。
サイモンは懐から小瓶を取り出し、テーブルの上に乗せた。男の目がそれに吸い寄せられるのを、小気味良く思う。
ナイト・クイーンは通常の薬の十倍近い値段はする。基本的にこういった薬は最初は安価な値段で売る。そして相手が中毒に陥った頃を見計らって値をつり上げていく。しかし、ナイト・クイーンに限ってはその中毒症状がほとんど出ない。そのため、最初からこれに限り値段が高く設定されているのだ。それでも、欲しがる人間は後を絶たなかった。彼らは甘いお菓子を食べるように、ナイト・クイーンを摂取する。
買える人間は上流階級や、中流階級でもかなり上位の裕福な人間だけに限られた。すなわち、今目の前にいる男は、労働者の姿をしているが、本来なら社会の最下層で生活しているようなサイモンが言葉を交わすことも出来ないような相手なのだ。
そんな男が、いまサイモンの前で無防備な姿をさらしている。これほど愉快なことはない。
「どうする? 買うか? 買わないか?」
青灰色の瞳が淡く揺れる。サイモンを見て、手の中の瓶を見る。ややして、ゆっくりと吐息を吐き出したか。
「本物か・・・・・。薬は、これ一つだけ?」
「ああ、いまのところはな。なんだ、一つじゃたりねぇってか?」
ずいぶんと欲深い男だ。しかし、おおむね金持ちとは欲深く、独占よくも強い。
「出所がどこか、教えてもらえないか?」
サイモンは吹き出した。
「おいおい、欲を掻きすぎるのはやめておけ。身のためだ。いまここに一つある。それで満足しておくんだな、お坊ちゃんよう。痛い目見たくねぇだろ? 俺達売人に取っちゃ、薬の入手元は企業秘密なのさ。誰でも自分の秘密は他人に知られたくないもんだ。あんたも、そうだろう? こんな薬に手を出してるなんて、家族や友人に知られたくわねぇだろ? それと同じさ。あんたにとっちゃ快楽の元のこの薬は、俺にとっちゃ金の元なのさ。さあ、てめぇはこれを買うつもりがあるならさっさと金を出す。買う気がねぇなら、ここから出て行きな」
しゃべりながら上着をめくって、その下に隠してあったナイフをちらつかせる。この席は裏口に面している。そして店の角奥にあるために、近くに座る客もいない。殆どの人間がこちらに注意を向けていない。今までにも金払いを渋る客を、裏口から引きずり出しぶちのめして無理やり金品を奪い取ったことがあった。この席は、そういう意味でも都合が良かったのだ。
「わかった」
男は小さく息を吐き出した。
「もともと話してもらえるとは思っていなかったさ」
男は上着の懐に手を入れた。てっきり財布入れが出てくると思っていたのに、差し出された手には何も乗っていない。からかっているつもりか、それとも金を出し渋っているのか、思わず脅しの言葉をかけようと身を乗り出したサイモンの首に、何かが巻きついた。
とっさにやった指先に、硬く細いものが触れた。例えるなら女の長い髪の毛に似ている。
ちりりんと、また鈴の音が聞こえた。
なんだ、これは。不思議に思って指先で引っかくが、よほど強く食い込んでいるのか掴めない。そうこうしているうちに息が苦しくなってきた。皮膚をぴりりとした痛みが走る。なんだ、これは。サイモンはまた思った。救いを求めるつもりで目の前にいる男の顔を見て、ぽかんとする。
先ほどまで無表情を貫いていた男が、伏目がちに薄く微笑んでいたのだ。
「お、おい」
「申し訳ありませんが、これもあの方のご命令ですから」
そういった声は、柔らかく丁寧だった。押し殺していたものを解放したかのように、男の雰囲気ががらりと変る。柔らかく控えめではありながら野花のような華やかさ。そして、冷たさ。男の指が何かを引くように動いた。
それに呼応するように鈴の音が鳴る。
瞬間、サイモンの喉は呼吸が出来なくなった。目を見開き、男を見る。指の先で喉を引っかくが、爪の先にかりかりとそれが触れるだけで、外せない。ぬるりと指先が自分の血で濡れた。叫び出したかった。ほんの少し離れた席では客が陽気な笑い声を上げて酒を飲んでいるのに、誰もサイモンの異変に気付かない。
助けを求めたいのに、喉をふさがれているため声が出せない。ああ、と絶叫が出口を求めて身体の中を駆け巡る。
「神のご加護を」
男の優雅な声と微笑み。それを最後に、サイモンの意識は闇に沈んだ。そして彼は二度と目を覚ますことはなかった。
男はサイモンがぱたりと机に突っ伏したまま動かなくなったのを確認すると、彼の首に巻きつけていた紐を解き、懐にしまった。拍子に紐の先に結ばれていた銀色の鈴が軽やかな音色を響かせた。透明で細く硬い糸は、獣の臓腑から作り出されたものだ。本来は楽器に使用されている弦なのだが、男にとってはなによりも手に馴染む武器だった。
机の上に置き去りにされたナイト・クイーンを見る。ため息が一つ零れた。素早くそれをポケットにしまい、代わりのものを置いておく。
漆黒の花弁の百合だ。
男は何事もなかったかのように立ち上がり、振り返ることなく裏口から店を後にした。誰も二人のやりとりに目を留めたものはいない。
ここの酒場の店じまいは明け方だ。それまでサイモンは誰に気付かれることもなくあそこで、まるで酔いつぶれた客として扱われるだろう。




