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 オーウェンは一人で店の前に立っていた。夜も近い時間だったことと、場所が場所だったためにケイトはアパートに残してきたのだ。

 蛸の足亭は大通りに面した酒場だった。

 通りは舗装された広い石畳で、道なりに多くの食堂や酒場が軒を連ねている。仕事帰りの人々が今夜の夕食や、一杯を引っ掛けようと忙しく通りを行きかい店を物色している。まだそんなに遅い時間ではないせいか、お遣い帰りの子どもや買い物籠を下げた女達の姿も通りにはまだちらほらと残っている。

 二十区とはいっても、最下層区ではない。確かに犯罪発生率は上層区に比べれば圧倒的に勝るだろうが、ここに暮らす多くの人々は日々を汗水たらして一生懸命に生きている者たちばかりだ。

 蛸の足亭は細い裏路地の隣に建つこざっぱりとしたレンガ作りの店だった。中からは陽気な歌声や笑い声が響いてくる。

 オーウェンは店の名刺と軒に吊り下げられた看板とを交互に見た。

「ここで間違いないみたいだな。あんまり悪そうな店にはみえないが・・・・・・・」

 下層区には公然と売春婦を置く店も少なくはないが、見た限りではこの通りにその手の店はないようだった。

 オーウェンは扉を押し開けて店の中に入った。むわりとした熱気が頬を打つ。ほとんどの席に客が埋まっていた。ずいぶんと繁盛しているようだ。ざっと店内を見渡す。男の姿がほとんどだったが、どの男も小汚い身形をしたいかにも労働者ばかりだった。

 こんな店に伯爵家のお坊ちゃんが紛れ込んでいたなら、ずいぶんと目立ったのではないだろうか。

 カウンターの端の席が空いていたので、オーウェンはそこに落ち着いた。

 酒を注文し、とにかく辺りをしばらくの間それとなく探ってみた。しかし、これといって怪しい振る舞いをするようなものの様子はなく、一人で来たものはちびちびと酒をすすり、友人と連れ立って来たものたちは陽気にはしゃいでいるばかりだ。

 オーウェンの推測では、ウィリアム・リトルはここでナイト・クイーンを買っていたのだろう。しかし、一見して売人とわかるものはいない。売人とわからないように振舞っているのかもしれない。さて、どうするか。しばらく考えた後、手の中の酒を一気に飲み干した。すぐにカウンターの内側でグラスを磨いていたマスターを呼ぶ。

「聞きたいことがあるんだ」

 口ひげをはやした四十代ほどの男は、胡散臭そうな視線を向けてきた。オーウェンは銀貨を一枚出し、カウンターの上に置いた。

「もういっぱい、もらえる?」

 無言で酒が注ぎ足された。それににこりと笑顔を返す。

 そして、今度は金貨と写真をカウンターの上に置いた。マスターの視線が無言でそこに落とされた。

「ほんの一ヶ月ほど前に、この店へ何度か通ってたみたいなんだけど、覚えてないかな?」

 マスターはおざなりに写真をつまみ上げ、一瞥だけしてまたすぐにカウンターの上にほおり投げた。

「あいにくとうちは、こんないいとこの坊ちゃんが来るような店じゃないんでな」

「写真では身形のいい格好をしているかもしれないが、たぶん、ここに来るときは変装していたと思うんだ。労働者のようにね。よく顔を見て、思い出してよ」

「・・・・・・あんた警察の人かい?」

 オーウェンは警戒深く探るように向けられた視線に、肩を竦めた。

「まさか。俺は、この子の家族に頼まれたんだ。頼むから、写真を良く見てくれないか?」

 写真の横にさらにコインをもう一枚並べる。マスターは渋々という顔で、再び写真に視線を落とした。

「若いな」

 ぼそりと呟く。

「まだ十七歳だったと言っていたよ」

「・・・・・・死んだのかい?」

「なにか知ってるの?」

「あんたが過去形で言ったからさ。こんな仕事をしちゃあいるが、俺だって馬鹿じゃない」

「だったら思い出してくれ。この子は、何度もこの店に来ていたはずなんだ」

「どうして、死んだのか教えてくれ」

「何故そんなことを聞きたがる?」

 マスターはグラスを拭く手を止めた。

「俺にも同じぐらいの息子がいるのさ」

「そう。じゃあ、あんたの息子にも注意しておいた方がいいな。薬に手を出したものの末路さ」

 男の眉が僅かに歪んだ。小さく息を吐き出す。

「馬鹿のすることだ」

 オーウェンも苦々しく微笑んで同意した。

「その通りだ」

「この坊主なら、何度か店に来ていた。労働者の振りをしちゃいたが、明らかに立ち振る舞が違っていたから覚えている。上の人間だろうとな。よくあそこの角の席に座っていたぜ」

「一人でか?」

「いや。友人と一緒のようだった。ただ、その友人は明らかに俺達と同じ側の人間に見えたがな。上と下の人間が仲良くしているんで奇妙に思ったのを覚えている。それと」

 マスターはそこでわざと言葉を切った。窺うようにオーウェンを見る。その目が意図することを読み取り、オーウェンは仕方なしにもう一枚金貨をテーブルの上にのせた。

「ついさっき、あんたと同じ質問をした若い男がいたよ」

「え?」

「そいつが、連れてっちまった。写真の坊ちゃんのご友人とやらをな」

 オーウェンはぽかんとした。椅子を蹴倒して立ち上がる。

 誰かが、自分と同じことをしているらしい。いったい何のために?

「そいつはどんな奴だった? いや、どっちか一方だけでもいい。人相か風体を教えてくれ!」

 すぐにでも跡を追いかけたいと焦るオーウェンにマスターは冷めた目を向ける。

「一目見ればわかる。例えるなら宝石のような男だ。独特の雰囲気をしている」

「宝石?」

 意味がわからなくて首を傾げたオーウェンに男は唇を歪めて笑った。

「あんたと同じ質問をした男だ。いや、男というよりは、少年・・・ちがうな、むしろお姫さんと呼んだ方がいいかもしれん。例えるなら宝石の中に閉じ込められた姫だ。そうゆうバラットがなかったか? あんた知らねぇかい?」

 からかわれているのか、それともこの男が詩人なのか。オーウェンはとにかく店を飛び出した。

 通りに飛び出し、左右を見る。夜も深まり、人通りがぐっと増えた。酒場からは煌々と灯が漏れ笑い声が常に響き、食堂からは腹を満たした客たちが家路や、もしくは次の酒場を求めるために通りに出てくる。この通りは、この時刻が一番のかき入れ時なのだ。

 この人だかりの中をマスターの曖昧な言葉を頼りに人を探せるだろうか。オーウェンが思わず考え込んでしまったとき、すぐ側から絹を裂くような女の悲鳴が響き渡った。オーウェンも驚いたが、通りを歩いていた人々もぎょっと足を止めている。

 声は途切れ途切れながら何度も聞こえてくる。オーウェンが立っている場所のすぐ側だ。

「裏路地か!」

 蛸の足亭のすぐ脇にぽかりと黒い闇が覗いている。オーウェンは懐の銃に手をかけ、路地に飛び込んだ。

 大人一人がなんとか通れるような細い路地だった。一番最初に目の中に飛び込んできたのは、ふわりと闇の中へ溶け込む誰かの後姿だ。ほんの一瞬、風に散る闇よりもなお黒く艶やかなものが見えた。まるで細く裂いた布のようなもの。

 一瞬それに気を取られていると、すぐ足元からああ、と弱々しく震える声が聞こえた。

 淡い水色のドレスに枯れ草色の外套を羽織った女が、オーウェンに背を向けてへたり込んでいる。どうやら悲鳴は彼女があげたものらしい。物取りにでもあったのか。

「大丈夫ですか?」

 そっと肩を掴んで彼女を振り向かせたオーウェンは、驚いた。

 エメラインだった。エメライン・リトル。ほんの数時間ほど前、リトル伯爵家で会った少女だ。

 彼女がどうして、こんなところに。

 そのときオーウェンは、彼女がどうしてあれほどの悲鳴をあげたのか、理解した。座りこむエメラインのすぐ目の前で、男が仰向けに倒れている。大きく見開いた瞳が、物言いたげに二人を見ていた。今にも何かしゃべり出そうとでもするように薄く開いた唇。しかし、その唇の端からは赤い血が一筋流れている。

 シャツの胸元が真っ赤に染まっていた。右胸の辺りに刃物で貫かれたような跡がある。そこから溢れ出した血は石畳の上に零れ、見る間に真紅の水溜りを作る。男は死んでいた。

 ―――――その胸元には、漆黒の百合の花が、まるで手向けのように添えられていた。

 オーウェンはエメラインを見た。頬や胸元に赤い血が付いていたので、ざっと身体を確認した。怪我はしていないようで、ほっとする。被害者の血を浴びたらしい。彼女は放心したように、固まってしまっている。目尻が切れんばかりに瞳を見開き、死んだ男の姿を見つめていた。時折喉から掠れた悲鳴が漏れるが、どうやら無意識のものらしい。

 ベリティリだ。漆黒の百合は、ベリティリの証。この男はベリティリに殺されたのだ。

 では先ほど、一瞬見えた人影は、ベリティリだったのか。

 いったい彼女は何を見たというのか。

「とにかく、ここを離れましょう」

 オーウェンは彼女を立ち上がらせようと肩を押したが、動かない。腰が抜けているうえ、放心状態が治まっていないらしい。仕方なく彼女を抱き上げ、路地を出ようとしたとき、ちりんと微かに鈴の音が聞こえた。はっと路地の奥を振り返る。

 何も見えない。しばらく耳を澄ませてみたが、鈴の音はもう聞こえてこなかった。


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