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第二部

 街灯の鈍い光の下を、長身の男がゆっくりと歩いている。癖のある赤味がかった茶色い髪を首周りに纏いつかせ、眠たげに伏せられた瞳は碧色をしている。顔立ちは整っているが、少しばかりつり目がちの目元が酷薄な印象を与える、二十代半ばの青年だ。

 オーウェン・クレイブスはほろ酔い気分だった。馴染みの酒場で、陽気な顔見知りたちと酒を酌み交わした帰りだった。ノーサスの三月はまだ春と呼ぶには早すぎる。

 北の海を渡ってきた風が、一番最初に行き着くのがこのノーサスの街だった。

 しかし、いまのオーウェンには冷たい海風も心地よく感じられる。赤く火照った頬を風に癒してもらいながら、家に帰るところだった。

 空には鎌のように細く尖った三日月が浮かんでいた。道を歩く人影はなく、通りに面した店はどれもとっくにカーテンを閉めている。石畳を踏み鳴らす自分の足音だけが辺りに響き渡っていた。そのとき、小さな呻き声が風の中に混じって、聞こえてきた。うううっと、苦しげな声だ。オーウェンは思わず足を止めて、耳をそばだてた。聞き間違いだろうかと最初は思った。

 呻き声は聞こえてこなくなったが、変わりにどさりと重たいものが倒れる音が聞こえた。

 人が倒れるような音だった。こんな人気のない夜道では、自分以外に手を貸す相手もいないはずだ。オーウェンは音のする方へ足早に向かって見た。

 オーウェンがいた道から一つ路地へ入った場所で、確かに人が倒れている。街灯の弱々しい光の中で、うつ伏せに倒れたフロックコートの背中が照らし出されていた。

「おい、あんた、どうしたんだ!」

 急いで駆け寄り抱き起こす。

「大丈夫か?」

 ごろりと腕の中で仰向けにして、思わずオーウェンは悲鳴をあげた。

 かっと見開いた目は彼を見つめて押し固まっている。白目の部分が真っ赤に充血し、まるで破裂しそうなほど眼球部分が迫り出している。口は今にも悲鳴を迸らそうとする形のまま動きを止め、そこから血肉のように真っ赤な舌が突き出していた。

 到底まともな人間の顔ではない。いったいどんな恐ろしいものを見れば、こんな形相が出来るというのか、オーウェンは身震いした。

 男は、恐怖に顔を引き攣らせたまま死んでいたのだった。

「いったいなにがあったんだ」

 そのとき、視界の隅を不思議なものが掠めた。男が何かを握り締めている。

「なんだ?」

 百合だ。黒い百合の花。それを、まるで命綱だとでもいうように硬く握り締めている。

 しかし、それを見てオーウェンは顔色を変えた。ぎょっとして、死んだ男を投げ出し、その場から数歩飛び退る。死んだ人間へ払うべき敬意は、黒い百合の前に一瞬で霧散していた。

 このノーサスの街で、黒い百合が持つ意味を知らぬ住民は、まずいないだろう。それは死への招待状だ。

「・・・・・・ベリティリ」

 頭上で鳥の羽ばたきが聞こえた。真夜中に鳥が? 不審に思って顔を上げたオーウェンの目に大きく羽ばたく翼が飛び込んでくる。―――――いや、違う。翼ではない。風にひるがえる外套だ。まるで闇を吸い込んだような漆黒をしている。

 家の屋根に人が立っている。全身をすっぽりと闇色の外套に包み、夜の中に溶け込んでしまっているが、三日月の微かな光が蝶の鱗粉のようにその人物を浮かび上がらせていた。

 男なのか女なのか、わからない。ただほっそりとした小柄な体型だろうということは見て取れた。しかし、その細い体から立ち上るのは、禍々しいほどの狂気だ。人を喰らう魔性の気配。

 オーウェンは恐ろしさに震える身体を無理やり押さえ込んで、身構えた。

 死体があり、死体には漆黒の百合が置かれてあった。なら、その側にいるのはベリティリに他ならない。

 懐に手をしのばせ、護身用に持っている銃に手をかける。意志の力で震える指を捻じ込ませ、トリガーに指を引っ掛けた。もし屋根の上から飛び掛られたら、すぐさま抜き出して撃てるようにと。ベリティリに武器を持っている様子はなかった。先ほどの被害者にも外傷はなかった。だからといって、この闇が武器を持っていないとはいえない。

 こちらは最強武器とも言える銃を持っている。本来ならこちらが有利のはずだが、オーウェンはこの禍々しい闇を前にして、銃を懐に持ちながらも勝てる気はしなかった。

 が、ベリティリはほんの数秒ほどオーウェンを見下ろしただけで、ふいと興味を失くしたように身を翻えしたのだった。屋根を反対側へ降りて、視界から消えてしまう。とたん呪縛が消えた。彼はどっとその場に膝を付いた。

 心臓が早鐘を打っている。

 ベリティリの姿を見て、生きて帰れたものはいないというのが、この街での常識だ。しかし、自分は生きている。この幸運を神に感謝しなくてはならないだろう。

 夜を統べる死の案内人、ベリティリ。


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