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それはまだ夜も開け切らぬ時刻のことだった。メイスン・バシュレ警部は道の真ん中に立っていた。彼の周りでは制服警官たちが忙しなく行きかい、野次馬たちが勝手に規制線の中に入ってこないよう押し止めようとしていた。本来ならまだ誰もが温かなベッドの中にいる時刻だというのに、好奇心をくすぐられた市民たちが寝巻きにガウンだけを羽織ったような格好でわらわらと集まって口々に勝手なことを話している。何度も何度も飛び込んでくるベリティリが、という言葉に、メイスンは思わず顔を顰めた。
また死神が出たという一報が、警察署にいたメイスンの元に飛び込んできたのはいまから二時間ほど前だ。
――――ノーサスの闇には死神が潜むという。
いつ頃からその名が囁かれ始めたのかは定かではない。メイスンの記憶にある限りここ数年のことのように思う。
ベリティリとは、ノーサスの闇を支配する死神の名だ。あるものは狂った殺人鬼だといい、あるものは狡猾な犯罪者だといい、あるものは英雄だという。
ベリティリは夜の闇の中から現れ、人の命を奪い、また夜の闇の中へ消えていく。その姿を見たものはなく、姿を見たものはみな死んでいる。
しかし、本来ベリティリとは王国トラディ・ベルに古くから伝わる神話の中に出てくる、神の名前だ。一説には女神であったとも言われている。夜を統べる、淫蕩で奔放な神は、裁きの神としての一面も併せ持っていた。夜の闇に乗って罪人の下へ訪れ、死の口付けをするのだという。その息吹の毒により、罪人は冥府へと運ばれる。ベリティリは常に闇を纏い闇の中を渡る。そのため姿を見ることは難しい。
そんな女神の名前を、誰がいったい狂った殺人鬼の名前として呼び始めたのか。警察にしては忌々しい限りだ。女神と殺人鬼を同一視し、神格化するものまで出始め、本来なら恐怖や憎悪の対象であるべきベリティリが、今では半ば英雄扱いされている。
警察の威信にかけて、そんなことは決して阻止せねばならない。
「おい、なにかわかったか?」
メイスンは遺体の確認をしていた部下の一人に声をかける。屈んだ格好のまま振り返った部下は「ベリティリです」と当然過ぎることを当然のように告げた。思わず眉根が寄る。
「そんなことは知っている。それ以外のことでなにかわかったかと言っているんだ」
ベリティリの犯行だということは、死体に置かれていた黒百合を見れば一発で判断できる。ベリティリは死体にいつも、それを残していく。犯行声明のつもりなのだ。そもそも百合が女神の象徴花なのだ。罪人を裁くときにその手に百合を持ち、花が莟んだままなら無罪、花が綻べば有罪だと判断するのだそう。殺人鬼が『ベリティリ』と呼ばれる所以もそこから来たのだろう。
それは不思議な百合だった。闇のようにのっぺりとした黒い花弁は、触れた瞬間薄氷のようにぱらぱらと砕け散ってしまう。そのため、いまだにそれが証拠として保存できたためしがなかった。鑑識が少しでも触れた瞬間には、砕け散って跡形もなくなってしまうのだ。
植物学者の話しによれば、そんな花は百合に限らず見たことも聞いたこともないという。花弁だけを見ればどこにでもある普通の白百合と同じ形をしているらしいのだが、その品種に黒を色調とするものは存在せず、ましてや触れれば砕けて消えてしまう花など、知らないと。その植物学者は新種かもしれないから是非研究させて欲しいと願い出てきたが、なにぶんにも花は犯罪の証拠品である上に、まったく保存が出来ないのだ。警察としても、研究で何か手がかりが出るというのなら喜んで差し出したいところだが、今のところそれが実現できたことはなかった。まずは花の保存方法を考案するべく、植物学者に頑張ってもらうしかない。
そこへ別の部下が走りこんでくる。
「被害者の身元が割れました。二十三区で開業医をしていた男ですね。名前はデリック・チェスター。今のところわかっているのはそこまでです」
「医者ねぇ」
メイスンは鼻を鳴らし、足元に倒れ伏している男を見下ろした。かっと見開いた目に、苦悶を浮かべた顔。恐怖のためなのか、それとも苦痛のためなのか、死に顔というにはあまりに壮絶な表情をしていた。嫌な死に顔だ。
死に際に喉を掻き毟ったようで、首に爪あとが残っている。
「死因は署に戻って検死をしてみないことにははっきりしないそうですが、毒が先か、心臓が先か、まずそのどちらかだろうと」
「普通に考えれば毒の後に心臓だろう。心臓繰り抜く為に毒を飲ませて弱らせたと考えていいだろうな」
喉を掻き毟っている様子から、確かに毒を飲まされた可能性は大いにあり得る。さらには、男の胸は大きく切り開かれ、ぽっかりと穴が開いていた。その中は本来あるべき臓器が失われ、空洞になっていた。ベリティリは、どうやら男の心臓を盗んで行ったようだ。
ベリティリは、よくある連続殺人犯とは少々異なっており、普通連続殺人犯は殺し方を類型化するものだが、ベリティリにはそれがないのだ。まったく統一されない殺し方は多岐に渡るため、同一犯行と見分ける唯一のものが、黒百合だった。
通常、殺しの数が増せば増すほど、犯行の型が顕著になるのだが、ベリティリは逆に複雑化する。類型化も統一性もない。
「どうせ、今回もあれですよ、この男もどうしようもない奴なんでしょうね」
部下が顔を顰め、吐き捨てるようにして言った。
ベリティリが、一部の人間には殺人鬼としてではなく英雄としてもてはやされている理由が、これだ。
ベリティリが獲物として選ぶ被害者は、その多くが法と警察の目をかいくぐった善人面を貼り付けたどうしようもない悪人ばかりだということだ。気に入ったからというだけで平然と道行く娘をかどわかし、気がすむまで弄んだ後は娼館へ売り捨てた青年貴族、幼い子どもで人体実験を繰り返した医師、毒薬を飲ませて人が苦しむさまを楽しんでいた貴婦人。金持ちであることや貴族であることは、この国においては何者にも勝る。富と権力を衣のように纏った暴君者達だ。そしてその被害者は常に下層区の力ないものたちだ。多くのものが泣き寝入りし、罪は罪として暴かれることなく、彼らを増長させてゆく。どうしようもない悪循環に、ベリティリは容赦なく楔を打ち込む。死という、楔を。
しかし、例え心情的にはベリティリに喝采を送りたくとも、メイスンは警察だ。いかなる理由があろうとも、殺人はもっとも許されぬ罪である。いつか、この手で死神を捕らえて見せると、心に誓うのだった。




