第一部
ユリエラ・セルヴィエは若き青年医師だ。その日自宅兼診療所にいたところ、男が突然転がり込んできた。赤ら顔に酒臭い息を吐きながらも、男は焦った様子でこう告げた。子供が川に落ちた。息をしていない。どうにかしてくれと、いきなり泣きついてきた。妻が夜の仕事に出かけている間、男は子守を頼まれていたはずが、ついつい酒に溺れて子供のことをころりと忘れてしまった。気がついた時には、子供はぷかぷかと川に浮いていたらしい。そりゃあ、とうに死んでいるなとユリエラは思ったが、とにかく診てみようと診察鞄を掴んだ。とたん、男はユリエラの腕をぐいぐいと引っ張って走り出す。半ば引きずられるようにしながら、彼は自宅兼診療所を飛び出した。
結果、子供は助かった。ユリエラが駆け付けた時には、子供は確かに息はしていなかった。かろうじて心臓がかすかな動きを見せていたが、その鼓動もほとんど止まりかけていた。大慌てで救命措置を取り、その末になんとか一命を取り留めた。子供の様子が安定し、感謝の土下座をしてくる父親と、仕事場から慌てて駆けつけてきた母親の泣きわめくのをなだめているうちに、話を聞きつけた近所の人々に天才医師だなんだとはやしたてられ、なんとかその騒動から抜け出せたのは日付が変わってからだった。
まだ子供の様子が心配だったため、診察器具や薬などを揃え直し、夜明けにまた様子を見に来るつもりで、一度家へ戻った。
異変は、その時に気づいた。
自宅前から数えて五つ。街灯の明かりが全て消えている。たった一〇〇メートルほどの距離ではあったが、そこには不自然なほど暗闇が落ちている。ユリエラの自宅は、一四区だ。ぎりぎり下層区には入ってはいないというだけの、中流階級区でも下に位置する者たちばかりが暮らしている。だが、いままで通りに並ぶ街燈がすべて消えていたということはなかった。
「まさか点灯夫がここだけつけ忘れたとはいわねぇだろうな」
しかし、辻を挟んだ隣の通りにはきちんと街灯は灯っている。その上、偶然か必然か、通りに面したどの家にも、明かりがついていない。遅い時刻とは言えど、こんなことは今までないことだ。夜なべて仕事をしている人も、ここでは少なくないというのに。
「・・・・・・めちゃくちゃ怪しい」
ユリエラは息を吸い込むと、懐に手を伸ばし護身用に持ち歩いているピストルをそっと取り出す。壁に身を寄せるようにして、自宅へ向かう。
その時、通りの奥に黒い箱馬車が停まっていることに気づいた。御者がじっと彼の家を見ている。決定打だ。
真正面から向かえば御者に見つかってしまう。彼は隣家の塀を飛び越え庭に降り立った。板を並べたような塀には四季咲きの蔓薔薇がからみついている。長身のユリエラが背を屈めればなんとか身を隠せる高さだった。腰を落としたまま、明かりの落ちた他人の庭を走り抜け、自宅の側までたどり着く。可憐な朱色の小ぶりの花が、時折風に揺れて甘い匂いを振りまいた。
ユリエラの家は小さな庭付きのセミデタッチドハウスだ。とはいえど、隣人はおらず、その理由も建てつけの悪い今にも倒壊寸前というような古屋のためだ。その一階部分を診察室と研究室に改装している。一階の北角の窓、一瞬オレンジ色の明かりが見えた。誰かがカーテンの端をめくって、外を覗いたのだ。あそこにあるのは研究室だ。
ユリエラは眉を潜めた。
医者と言えば裕福と思われがちだが、ユリエラはまだ駆け出した。相手にする客も、中流階級や下層区の労働階級者が多い。家を見れば、満足の行くような生活が送れていないことはわかるはずだ。そんな家に金目のものなどあろうはずもない。
停まっていた馬車は、辻馬車の類ではない。おもに金持ち連中や貴族が使うような箱馬車だ。自家用馬車なのか貸し馬車なのかまではわからないが、どちらにしろ今ユリエラの自宅へ侵入しているものは、ずいぶんと裕福なものだということだ。少なくとも、金目当ての物取りではない。
「・・・・・・やばいな」
物取りではなく、明かりが研究室から見えたということは。
思い当たることは、一つだけだった。
ユリエラは、診察鞄を足元に置き、中からナイフを数本取り出す。反対にピストルを懐にしまい、指の間に挟み込むようにメスを持つ。勢いよく、足を伸ばすと同時に跳躍して、塀を飛び越え自宅の庭に降り立った。
その次の瞬間、なんのタイミングの悪さか、盗人が玄関を開けて出てきたのだ。ユリエラと泥棒はお互いが不意を突かれた形で対面することになってしまった。
泥棒は二人だった。どちらも身なりがよく、丁寧になでつけた髪の男たちだった。覆面さえつけておらず、おおよそ泥棒らしくない。
先に動いたのはユリエラだった。握っていたナイフを男の一人に向って投げつける。まっすぐな線を紙の上に引くように飛び出したナイフは空気を切り裂き、男の一人の喉に突き刺さった。うっと男は呻き声をあげる。何事が起きたかわからぬまま、喉に手をやろうとして、固まる。そのままの格好でばたりと倒れこんだ。
ナイフの先にはあらかじめ、即効性のしびれ薬が仕込んである。
隣の男がうろたえたように、倒れた仲間に手を伸ばそうとする。
ユリエラは二投目を投げつけようとして、背後で人の気配を感じた。とっさに地面に転がる。夜の静寂を蹴破るような銃声が響く。三度転がり体を壁際に押し付け、身を低くしたまま振り返ると、御者がピストルを構えて立っていた。
「早くしろ!」
御者が叫んだ。無事な方の男がもたもたと仲間の男を助け起こす。ユリエラは握っていたナイフを振りかぶった。しかし、それは御者によって阻まれる。寸出で足に穴を開けられそうになるのを横っ跳びに飛び退って避け、跳躍と同時にナイフを御者の手に向って投げつけた。が、交わされる。
どうやらこちらの男は素人ではないらしい。しかも、ピストルの腕も無駄に良いようだ。
「おいコソ泥ども、人の家で何してやがる!」
彼は、この家を借りる前から植えてあった名も知らない木の影に飛び込んだ。
内心で舌打ちを漏らす。ナイフを右手に持ったまま、左手でピストルを取り出した。
もともとユリエラは、近接暗殺型だ。ピストルの腕には正直、自信がない。この闇と距離ではなおのこと。出鱈目を撃っても、御者の腕なら逃げ出してしまうだろう。しかし、ちらともう一方の男の方へ目を向ける。倒れた仲間を律儀に抱えて、よたよたと馬車の方へ走っていく。
「わりぃが、こっちもそう簡単にコソ泥を逃がすわけにはいかねぇんでな」
ピストルを構え、御者に向かって一発。最初から当てるつもりがなかったのが良かったのか、運よく御者の右頬を掠めた。怯んだ隙にユリエラは植え込みから飛び出し、ナイフを男の方に投げつける。しかし、すぐに御者が発砲する。転がりながら、隣の植え込みに隠れるが、銃弾はやまない。続けざまに数発と打ち込まれ、頭を抱えた。
銃弾がやんだとき、とにかく体に一つの穴もあいてないことに安堵した。
ガラガラと物凄い速さで馬車が家の前を通り過ぎてゆく。植え込みから飛び出し通りに出るが、すぐに闇にのまれて見えなくなった。ユリエラはため息を落とす。
急いで研究室に入るが、部屋の惨状は散々とした有様だった。書類や器具が床一面に散乱している。一番酷かったのは壁際の薬品棚だ。本来なら鍵がかかっているはずの棚は、無理やりこじ開けられていた。その一番奥にしまっておいたはずの薬品が、消えている。舌打ちが漏れた。
頭に指を突っ込み、がしがしと頭を掻き毟る。
「くそっ、やられた。こりゃあ、叱られるだけじゃすまねぇぞ」
これから自分の身に降りかかることを想像し、ユリエラは眩暈を覚えた。