18
その日一日の診察を終えたデリック・チェスター医師は、家路を急ぐため足早に歩いていた。辻馬車を拾える大通りまでは、ここから少しばかり距離がある。乾燥して土埃をまきあげる舗装のよくない道に辟易しながら、コートの襟元を書き合わせた。
時折視界の隅をよぎる浮浪者の丸まった姿が目に入るたび、顔を顰める。なんだって、俺がこんなところで。そう吐き出したくなる言葉を、唇の奥で噛み締める。彼の経歴なら、本来は貴族相手の専属医を務めていたとしてもおかしくなかった。現にデリックの曽祖父は前国王の主治医だったこともあった。彼の父は、エヴァリン公爵家の専属医を勤めている。チェスター家は先祖代々から続く名医の家系だ。子弟のほとんどが医学の道に進み、名門貴族の専属医を勤め上げてきた。
本来ならデリックもその一人になるはずだった。足を踏み外したのは、彼が王立医学学校時代で知り合った仲間たちと、軽い気持ちで手を出した麻薬が事件にまで発展したからだ。仲間の一人が自分で調合したという麻薬を、全員で試薬していたときに、それは起きた。心地よい酩酊に酔いながら、金で呼び寄せた女達と狂乱を興じていたさ中に、警察に踏み込まれたのだ。そこが下層区の一室だったのがまずかった。同じ借り物の一室だったとしても、もし上流区だったなら警察はそんな乱暴な真似はしなかっただろう。踏み込まれ、麻薬に気付かれ、逮捕された。医学の道にあるものが、麻薬に手を出し、あまつさえそのことが警察に知られ逮捕されたとなっては、もはや将来は失われたに等しい。名門チェスター家の家名に泥を塗ったと、事件を金でもみ潰した父が、その足でデリックの顔を殴りつけ、勘当を言い渡した。
生活は一気に苦しくなった。医師として、誰もデリックに見向きもしなくなった。信用と後ろ盾の両方を失ったからだ。自暴自棄になって酒と女と薬に溺れ、もはや下層区の人間と区別がつかないほど荒れ果てた生活をしていたデリックに声を掛けてきたのは――――。
「こんばんは」
不意に声がした。振り向くと、少し離れた路地に小柄な影が一つ。街灯の少ない道では、夜の闇が邪魔になって顔まではよく見えない。思わず物取りかと警戒する彼に、さらに柔らかな声がかかる。
「デリック・チェスター先生?」
問いかけというよりは、確認しているというような声だ。患者だろうか。目をひそめながらも「そうですが?」と頷いた彼に、ほっとした声が続く。
「良かった、お会いできて。わたし、先生のお顔を知らないので、人違いをしたら大変でした」
すっと近づいてきたのは愛らしい容姿をした少女だった。優しげな顔立ちは大人しそうな印象を与える。少女は、闇に溶け込むような黒い外套を身につけていた。そのせいか、白い顔だけがぼうと浮かんでいるように見えた。
「えっと、君は? 私になにか用かな?」
「ええ。もちろんです。用があったから声をかけました」
少女はにっこりと微笑む。目の前まで歩み寄ってきたことで、彼女の全身がよくみ見えるようになった。デリックは、驚きで目を見開いた。
白い額に落ちる前髪も、頬を通って肩を滑り腰の辺りで揺れている髪も、闇に溶け込んだような黒だ。金や銀、赤や茶といった髪はあっても、このアルカシス大陸では黒を容姿に持つ人種は滅多にお目にかかれない。黒は西方の島国群でのみ暮らす民俗特有の色なのだ。
黒髪の少女が、こんな時間にこんなところにいる理由。ここは娼館街と呼ばれる二十三区だ。彼女もまた、娼婦の一人なのだろうか。
ずるりと、人当たりのいい医師としての仮面の下から、淫猥で猥雑なもう一人の自分の顔が浮かび上がる。欲しい。今目の前にいるのは、この国では滅多にお目にかかれない珍しい少女だ。是非、触れて味見をしてみたい。
あの薬は、金を持っていそうな娼婦をターゲットにしたものだった。娼婦にもピンキリいる。館に属した娼婦なら、金を溜め込んでいるものも少なくない。しかし、人の価値はなにもいくら金を持っているかどうかだけではない。
例えば、今目の前にいる珍しい容姿をした少女。この少女は、存在自体に価値がある。もちろん、それは自分が楽しむためという意味と、この少女を使って新たな金を生ませることができるという意味で、だ。好事家に彼女を売れば、きっと面白がって高値で買うはずだ。
なにしろ珍しい黒髪なのだから。
「診察かい? どこか具合でも悪いのかな? 今からでも診て上げよう」
人当たりの良い笑みを浮かべながら、その仮面の下でデリックは算段を始める。
あの薬は、一度服用すれば二度三度と必ず手を出さずにはいられなくなる。初めのうちは払えても、高額な値段にすぐに手が出せなくなって、娼婦たちは身を崩した。この少女も、薬の魔の手からは逃げられないだろう。
金の変わりに、彼女の体を要求するのは簡単なことに違いない。
「さあ、おいで」
デリックは少女へ向かって手を差し出した。診療所はすぐ側だ。しかし、彼女は首を振った。
「優しいのですね。ですが、わたしは診察を頼みに来たのではありません。あなたにはいくつか聞きたいことがあったのと――――それと是非あなたの命を頂きたくて伺いました」
「は?」
眉根を寄せたデリックに少女がさらに近づく。お互いの手が伸ばせば届く位置まで来て、不意に彼女の表情が変貌した。柔らかなものから妖艶なものへと。間近で見た瞳は、灰色をしている。
「ぐふっ!」
少女の瞳に突如走った強い煌きに、わけがわからずきょとんとしていると、素早い動きで突き出された白い手に顔を掴まれた。口を覆うように掌で多い尽くされる。とっさに反応できずにいた間に、口の間に何かを押し込まれた。それはするりと舌の上を滑り、喉の奥へと流れ込んだ。
なんだ? なんなんだ?
何一つ理解できずにいるデリックの体を、突如激痛が襲った。
「うわあああああっ!!!」
彼は絶叫を上げ、地面の上をのた打ち回る。腹の奥を焼くような痛みに、汗や涙や鼻水や涎が一斉に吹き出した。ふうふうと獣のような荒い息が喉奥から漏れる。
痛みにもんどりうつデリックの頭上から、声が落ちて来た。
「良い様ですね」
くすりと笑う声。思わず向けた視線の先では、闇の中に今にも溶けて消えてしまいそうな少女の姿。
「地獄へようこそ」




