表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/40

16

 アシルは安らかな寝息を立てるジネットの姿に、涙が止まらない。死んでしまうんだと思った。もう助からないのだと。ドロシーのように、ジネットも土の下へ埋められてしまうのだと、絶望的に思った。日に日にひどくなる病気となくなっていくお金。親のいない貧しい子どもには、どうすることもできない。愛する家族一人、助けることも出来ない。無力感に打ちひしがれたアシルが、最後の最後にもう一度縋りついた人は、しかし今度は手を振り払わなかった。反対にぎゅっと握り返し、アシルを希望へと導いてくれた。

 そのことに、どれだけ感謝すればいいだろう。

 大丈夫ですよと、微笑みかけてくれた少女の顔を思い出す。

(俺、あんなにひどいこと言ったのに・・・・・・)

「大丈夫か?」

 不意に聞こえてきた声に、振り返る。先ほどの医者が立っていた。彼はアシルの肩口にジネットを覗きこみ、うんと一つ頷く。

「よく眠ってるな。薬が効いてるんだろう。安心しろ、すぐによくなる」

 ぽんとアシルの頭に手を置き、彼はジネットのシーツを掛けなおした。そして、「ほら」と右手をこちらへ差し出す。え、と瞳を瞬かせると、彼の手にはカップが一つ握られていた。暖かい湯気が昇っている。

「ミルク。温めにしといた。飲むと、落ち着くぞ」

 にこりと優しく笑われ、アシルはどぎまぎした。姉のことでいっぱいだったのと眼鏡に隠されていて気付かなかったが、彼はとても綺麗で優しい顔をしている。慌ててカップを受け取ると、青年の手がアシルの頬に伸びた。大人の男の大きな手だ。こんな手があれば、自分も姉を上手に守れただろうか。反射的に浮かんだ思考に意識が持っていかれ、彼が指の先で涙を拭ってくれたことにすぐには気付かなかった。

 ぼんやりとしていると、青年がくすりと声を漏らす。

「それ飲み終わったら、お姉さんの隣にもう一つベッドを用意してやるよ。今日はそこで寝るといい。明日様子を見て、病棟に移すから、それからしばらくは入院だ。ああ、それと金のことは心配しなくていい」

「あ、ありがとうございます!」

 彼には感謝してもし足りない。頭を下げたアシルに、彼は目を細める。

「お礼なら俺じゃなくて、シファ様に言え。すべて取り計らったのは、あの方だ」

「シファ様?」

 聞いたことのない名前にアシルが首を傾げると、青年は驚いたようだった。眼鏡の奥で鳶色の瞳が軽く見張られている。なにかおかしなことを尋ねただろうかと不安になっていると、彼は薄い唇から嘆息を漏らした。そして、アシルの座っている場所から正反対の位置にある机に、浅く腰掛けた。目の前にある椅子には、目もくれない。

 行儀が悪いわよ、不意に耳の奥に姉の声がよみがえった。昔自宅で同じことをしたアシルに、姉が叱り付けたときの言葉だ。

 医者とはもっと融通の利かない偉そうな人間だと思っていた。医学を学ぶのにはお金がかかるため、医者になるものは大概が裕福な家か貴族の子弟だ。生れ落ちたときの身分が一生を決めるといわれるように、彼らは常に偉そうで威張っている。イルヴァの館の専属医も、実家は地方の領主筋らしく、時々自慢たらしく娼婦相手に先祖が過去王家にどんな貢献をしたかを話して聞かせてくる。

 それに医者には自分が高い教養を持っているという自負者も多い。

 チェスター医師の身振りにも上流階級者特有の振る舞いがあった。そして、彼らは時として下層区の人間を、同じ人間とはみなさない。アシルが二度目に薬を求めて尋ねたとき、チェスター医師は困った顔をした。同情するような哀れむような視線を向け、言ったのだ。「お金がないものは、必要ないんだけれどねぇ」と。それは小さな声で、アシルに聞かせるつもりのなかったものなのだろうが、チェスター医師の本音だ。

 目の前の彼も、上流の人間のはずだ。だのに身形は良く見ると古着のようだし、立ち居振る舞いも優雅には見えない。少なくとも上品な人間は目の前に椅子があるのに、わざわざ机には座らない。

 がしがしと、長い藁色の髪の毛を掻き毟ると、彼はひたとアシルに視線を合わせた。

「シファ様ってのは、聖女様のことだよ。聖女様が誰かはわかるだろう?」

 アシルは頷く。

「あの人、そんな名前なの?」

 殉血の聖女と呼ばれていることは知っているが、名前までは聞いたことがなかった。

「ああ。命の恩人の名前ぐらいは覚えとくように」

「じゃあ、あんたの名前は? あんただって姉ちゃんの命の恩人だ」

 アシルが尋ねると、彼はちょっと目を大きくする。それから唇に笑みをのせる。

「ユリエラ・セルヴィエだ、坊主」

「坊主じゃない。俺はアシル。アシル・オーリク。姉ちゃんはジネット・オーリクだ」

「そうか、じゃあ、アシル。お前、シファ様にずいぶんとひどいことを言ったんだってな」

 アシルは、はっとして口を閉ざす。ユリエラの鳶色の瞳が、嘘は許さないと射すくめるように光っている。思わず視線を逸らした。

「シファ様から聞いたんじゃない。ルルゥが言ってたのを耳にしたんだ」

「俺を叱るの?」

 アシルは首を竦め、恐る恐る聞いた。

「まさか。シファ様が気にしていないのに、俺がとやかく言う筋合いはないさ。あの方は、特殊な立場にある方だからな。よく言われることもあれば、悪く言われることもある。それぐらいはとっくに覚悟をしてる方だ。ただ、アシル。おまえはシファ様に救ってもらった。なら、あの方を誤解するべきじゃない」

「誤解?」

 意味がわからなくてアシルはきょとんとする。

「あのな、シファ様は一番最初におまえの姉さんを見たとき、ただの過労と風邪だろうと思ったそうだ。今年の冬はいつも以上に厳しかっただろ?」

 言われて思い出す。確かに今年の冬は、厳しかった。大陸でも北に位置するノーサスは、鼻を突き出した男の横顔のような地形をしている。三方を海に囲まれていることもあって冬が厳しい。その上、今年はいつにない厳冬だった。凍りついた海に船を出せず、多くの船乗りや商人たちが街に閉じ込められた。彼らは必然的に退屈をもてあまし、それを消化するために手近な娯楽に走る。酒と賭博と娼館だ。イルヴァの館にも、毎晩盛況なほど客が入った。娼婦の数が足りなくなり、街娼達に助っ人を頼んだほどだ。

 厨房婦をしていた姉も、下働きのアシルまで目の回る忙しさだった。

「疲れが出たんだろうと思ったんだってさ。彼女を休ませる意味でも、ゆっくり療養させるつもりで聖血の儀式を行なわなかったんだそうだ。マダム・イルヴァは人情家だから、数日休んだぐらいじゃ解雇もしないだろうとも、な」

「で、でもっ・・・・・・」

 でも、アシルは心配した。二人きりの家族なのだ。心配して当然だ。助けたいと思って当然だ。

「シファ様がどうやって人々を治療してるか知ってるか?」

「え?」

「見たことは?」

「あ、あるよ。秘跡の儀式を受けるときに列に並んだから。聖女様の血を貰うんだろ?」

「ああ、そうだ」

 彼は深く頷いた。

「なら、アシルはシファ様の手を見たことはあるか?」

「手?」

 首を傾げる。手? どうだろう? 頭の中を探る。しかし、浮かぶ記憶はない。その手に引かれたことはあったが、わざわざ意識して見たことはなかった。アシルは首を振る。ユリエラはその返答を予測していたようだった。目を伏せ、苦味のある笑みを浮かべた。

「なら一度よく見てみるといい。あの方の手も腕も、傷だらけだから」

「え?」

「血を与えることで相手を癒すということは、自分で自分の体を傷つけなきゃならないってことだ。その意味がわかるか? あの方に助けてもらうってことは、その分だけあの方が傷つくってことだ。シファ様は一日に三十人近い人間に血を与える。毎日毎日、新たな三十人のために自分の体を傷つけて血を流す。傷は癒えることがない。深くなる一方だ。だが、あの方はそれは神様がくれた奇跡だという。使命だからとな。――――血が流れすぎると人は死んでしまう。三十人分、それが毎日流せるギリギリの血の量だ。だが、シファ様に助けを求める人の数は、それ以上いる。毎日毎日、数は減ることなく膨れ上がる。だけど、シファ様の体の状態をぎりぎりでも保つためには、切り捨てなければならない人たちもいるんだ。だから患者に優先順位をつけるしかない。より重いものを、緊急性のあるものを。その意味はわかるな?」

 鳶色の瞳が真っ直ぐにアシルを見る。アシルは唇を噛み締めた。ぎゅっと拳を握る。

「多くの人を助けたいと言うのがシファ様の言葉だ。そのためなら、命は惜しまないと平気な顔をして言う。だが、あの方だって生きている。生きる権利のある命だ。他人のために、犠牲になっていい命じゃない。それは、みんな同じだ。だから、シファ様が毎日血を与える人間の数を無理やり俺が決めさせた。あの方の命と、あの方の奇跡をこの世から消してしまわないように。――――だから、おまえが本当に恨むべき相手は俺なんだよ、アシル」

 最後の言葉は、小さく囁くような声音で紡がれた。まるで小さな小さな隙間風のように、ひょうとアシルの体の周りを巡って駆け抜けていく。

 自分を見つめる鳶色の瞳。その瞳に宿る強い信念。それは聖女を守る固い意志だ。

 優しいのだ。この人も。そして聖女も。ただ、どちらも言い訳をしない。だから誤解される。アシルは誤解した。でも、今は自分が間違っていたことがわかる。聖女は――――シファは優しい人。そして目の前の男も、優しい人だ。

「ごめんなさい」

 言葉にしたとたん、涙が零れた。ごめんなさい。ごめんなさい。それと、

「助けてくれてありがとう」

 ぽろぽろと泣き出したアシルを、最初ユリエラはぎょっとしたようだったが、やれやれと肩を竦めると、手にあったミルクを取り上げ脇に置き、そっと頭に手を回してアシルの頭を肩口に引寄せた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ