15
がらがらと音を立てて馬車が走る。「急いでください」というシファの頼みで、御者が何度も鞭を振るう音が聞こえる。舗装の悪い道が多い下層区では、何度も車輪が石を噛んで激しく揺れた。そのたびに座席から振り落とされないようしがみ付かなくてはならない。ルルゥは器用にジネットを抱え込んでいる。
その車輪の音が次第に規則正しいものへと変わり、揺れが収まってくる。下層区から抜け出しつつあるのだ。恐る恐るというようにアシルが小窓から顔を出して外の景色を見た。等間隔に設けられた街燈。酔っ払いや娼婦、乞食の姿のない道に、驚いたように目を丸くする。
生まれた場所が、一生を決めると言われている。労働者階級の子どもは、大人になっても労働者階級だ。貧しい家で生まれ、生涯その貧しさから抜け出せないまま死を迎えることなど普通で、大半のものは下層区から出ることさえない。アシルもそうなのだろう。
ほんの少し区域が違うというだけで、世界はまるで光と影のように変わってしまう。
馬車は一軒のセミデタッチドハウスの前に止まった。中から扉を開ける前に、外から開かれる。ランタンを手にしたユリエラだ。片腕には、黒猫のノーユが抱かれていた。どうやらシファたちの到着を外で待っていたらしい。先にジネットを抱えたルルゥが下りる。
「どこに連れて行きゃいい?」
「診察室だ」
慌しく家の中へ入っていく二人から少し遅れて降り立ったシファは、馬車を降りて呆然と辺りを見回しているアシルの手を取った。彼はびくりと肩を震わせ、怯えたような視線を向けてくる。
「お、俺、あの・・・・・・」
もごもごと唇を動かし、結局何もいえぬまま俯いてしまう子どもの顎をすくい上げ、シファは視線を合わせた。彼が何を言いたいのかは、簡単に察せられたからだ。
「お金のことなら心配はありません。あなたはただ、お姉様のことだけを考えていなさい」
「・・・・・・はい」
シファは微笑むと、馬車の御者にお金を渡す。がらがらと闇の中へ引き返していく車輪の音を背中で聞きながら、アシルをともなって家の中へと入った。
入り口のすぐ横が待合室になっている。とはいってもひどく殺風景な部屋だ。無造作に椅子が何脚か置かれてあるだけで、患者の気持ちを和らげるような飾りは一切ない。元は普通の家だったものを改造したためか、場違いに壁紙が可愛らしい花柄なのが、ひどい違和感だった。
ただ、灯はたくさん置かれてあった。もしかしたら、彼女たちの来訪に合わせて、用意してくれたのかもしれない。
シファはアシルを椅子に座らせ、自分はその傍らに座る。ジネットを診察室に運び込んでいたルルゥもすぐに戻ってくる。その足元にはいつの間にか、黒と白の猫が揃っている。椅子に座ったルルゥの膝の上にぴょんと飛び乗るとすぐに喉を鳴らし始めた。
アシルは膝の上で両手を組んで、押し黙っている。見開かれた瞳は固まったまま、閉じることを忘れてしまっている。不安と焦燥が、子どもの体の中を満たし、今にも破裂しそうだと思った。
シファは、後悔という感情を持たないようにしている。過ぎ去った時間を悔いたところで、得られるものは何もない。失った物の数を数えたところで、失敗した物事をいまさら思い悩んだところで、もはやすべてが手遅れだ。なら、そうなる前に最良の道を選ぶか、間違えて掌から取り零したものを仕方ないと諦めるか、どちらの道を選ぶかは、本人の覚悟による。
この生き方を選ぶと決めたときに、このために死んでも構わないという覚悟を決めた。それと同時に、自分の掌の大きさでは、掴み取れるものに限りがあることも、そのために見捨てなければならない命があるのだということも覚悟をした。救えないことで、責められることがあったとしても、後悔しない。それが、シファが歩むと決めた道だ。
――――だから、アシルの姉を治療しなかったことを後悔はしない。あのときは、それが自分に出来る最良の選択だったと思うから。
だが、もし今目の前で二度目の選択をしなければならないとしたら、シファは彼と彼の姉を救う道を選ぶ。
シファがすうと息を吸い込んだとき、診察室に繋がる扉が開かれた。白いハンカチで手を拭きながら、ユリエラが現れる。彼は、一斉に向けられる視線に一瞬たじろいだようだったが、すぐに苦笑を浮かべて「大丈夫だ」と告げた。
「命に別状はない」
「本当か!」
椅子を蹴倒しそうになりながら、アシルが立ち上がる。強張った顔で、青年医師を凝視する。
「本当だ。ま、ちょっと危なかったがな。今は眠ってる。側に行くか?」
こくこくと頷いたアシルに、ユリエラがドアを開けてやった。幼い背中が診察室の中へ消えるのを目で追って、シファは吐息をつく。それが聞こえたのだろう、ルルゥがこちらを向く。気遣うように紫の瞳が揺れていた。
「疲れたのか?」
「いえ。助かってよかったと」
彼女はそこで言葉をとぎらせ、微笑を浮かべる。慈悲深い女神のように。目にしたルルゥは眩しいものでも見たように瞳を細め、すぐに視線を逸らしてしまった。
「ああ」
短く、だがしっかりと彼も頷く。
アシルを診察室へ案内していたユリエラがすぐに戻ってきた。その表情は先ほどとはうって変わって厳しい。子どもの目が消えて、本来の役目を隠すことなく剥き出しにしている。
「毒だった」
眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐにシファに向ける。椅子に行儀良く座っていた彼女は単刀直入な言葉に、「そうですか」と視線を下げて俯いた。
やはりあの時彼女に自分の血を飲ませなかった判断は、間違っていなかったのだ。
――――この毒は、シファの血を摂取することでさらに効果を増すのだ。
「彼女の場合、飲んた毒の量が少なくて助かったようなものだ。奇跡的な幸運だよ。それにしても、これで六人目だ」
これは、この数週間の間に教会へ運び込まれた、毒を飲まされたと思わしき患者と死者の数だ。もっとも、六というのは少なく数えて六というだけで、実際はもっと被害者が存在しているだろう。
下層区は広く、教会の数も一つではない。他の教会に運び込まれてしまうと、シファたちの耳には入ってはこない。
葬儀にしろ埋葬にしろ、すべてにお金がかかる。共同墓地に埋めてもらえるだけでも幸運だという者は少なくない。中には墓に入ることさえ出来ず川に投げ込まれたり、路上に放置されたままの死体も多い。気付かれず死んだものもいるはずだ。
被害者の数は、少なくともその二倍、もしくは三倍はいるものと考えた方がいいだろう。
「二週間で六人以上たぁ、最悪最凶の殺人鬼だな。さすがのベリティリも真っ青だ」
茶化すようにルルゥが唇を歪める。
今最もノーサスで恐れられている死神の名前を引き合いに出され、シファは事の重大さに眉根を寄せた。確かに、その数は異常だ。
「考えなきゃならないのは、何故被害者の多くが娼婦に集中してるのかということと、毒をどうやって摂取させたかだな」
壁に背もたれたユリエラが、的確に疑問点を指摘する。
どの娼婦も最初は軽い体調不良から始まる。それが次第に重くなり、最後は血を吐いて死に至る。ユリエラの見立てでは、一度に摂取される毒の量は少なく致死量に満たないという。それが時間をかけて体内へ蓄積して行き、最終的に規定値を越えて死へと誘う死神の手となる。
一度だけなら、摂取させるのはたやすいだろう。しかし、長期的に服用させるとなると、困難の度合いは増す。被害者とて馬鹿ではない。それを飲まされて体調が日に日に悪くなっていくことに気付かないはずがない。信用させ、相手のすぐ近くで何度も何度も、毒を飲ませる方法とはなんだろう。被害者の共通点は、娼婦か娼婦と関係のあるものが多い。
「・・・・・・被害にあうものが娼婦に多いのは、犯人が娼婦と接触する機会が多いということでしょう。死ぬまで気付かれることなく毒を飲ませることが出来るということは、よほど被害者達に信頼されているということになります」
「とはいっても、シファ様。そんなものは数多くいるぜ。館の主に、同じ娼婦仲間や、仲のいい下働きや、贔屓の客、数え上げたらキリがねぇよ」
男娼として働くルルゥが異議を唱える。
「ええ・・・・・そうですね。ですが、犯人はきっとすべての被害者と接点がある人物です」
とはいえど、口で言うほどに、それを調べるのは難しい。とそのとき、ルルゥの膝にいた白猫がみゃあと鳴いた。
「先生、窓開けて」
ルルゥの注文にユリエラが言われるままに窓を開けてやると、白猫は主人の膝から飛び降りて窓から出て行ってしまう。残された黒猫のほうはぐるぐると喉を鳴らしながら、突然降って湧いた主の膝の独占権に目を細めた。
シファはしばらく黒猫に目を落とした後、顔を上げて窓を見た。黒い闇の向こう側、街燈の明かりが揺れている。
人の命は、炎に似ている。それは、時として赤々と空高く燃え上がり火の粉を撒き散らすが、その逆に今にも燃え尽きそうなか細く儚い蝋燭の炎のようなときもある。犯人は、焚き火なら水をかけて、蝋燭なら息を吹きかけて、その炎が消えるのを眺めて楽しんでいる。
「シファ様?」
急に無言で押し黙ってしまったシファを、不安そうな声が呼ぶ。視線を動かすと、眉根を寄せた紫の瞳と鳶色の瞳が同時に自分に注がれている。
「大丈夫か? 少し休むか? すぐに客間を用意するぞ」
立ち上がり近づいてきたユリエラに、シファは首を振った。
「大丈夫です。ありがとう。少し考え事をしていただけです」
「でも、もう夜も遅いし、シファ様は休んだ方がいいんじゃねぇか?」
いつまでも眉を下げたまま、ルルゥが覗き込んでくる。その紫の瞳に微笑み返し、ゆっくりと首を振った。耳の横でウィンプルがかさりと音を立てて揺れる。
「夜が遅いのにはなれています。それよりも、今はノーアからの応答を待ちましょう」
白猫が主を残して外へ出て行ったのは、たんに気まぐれな猫の性質からではない。賢い猫だ。なによりも主人のために役に立とうとする。
「報告を」
突然、待合室の中に、低く抑揚のない男の声が響く。シファはゆっくりと、ルルゥの膝の上で、今は背筋を伸ばすようにして座っている黒猫を見た。猫の口が、少し開いている。そこから聞こえてくるのは甲高い猫の鳴き声ではなく、人間の男の声だった。
「キラですね。報告を聞かせてください」
シファの返答に少しの間の後、猫の口から再び声が零れる。
「ジェーン・アボットは死ぬ一ヶ月ほど前から病気にかかっていました。本人が友人に話した内容によれば、軽い風邪だろうと言っていたようです。一時は体調は回復して仕事に出ていたようでしたが、数日後にはさらに悪化。その後は消息が途絶えました。身辺に奇妙な人物との接触の証言はなく、客もみな古馴染みばかりだったようです。ただ、彼女が家に溜めていた貯金がほぼ全額なくなっていたと家主が証言しました」
「盗まれたのか?」
ルルゥは膝の上の猫に問いかける。
「・・・・・・部屋に荒らされた様子はなかったようです。ただ、彼女の家の近所にある質屋で、数回貴金属品を預けに行く姿が目撃されています。その後請け出したという証言はありません」
「他の娼婦たちのことは?」
「みな、似たり寄ったりです。貴方がすべて聞きたいというなら、話しますが?」
「いえ。そうですか。ありがとう。それで充分です。キラ、ご苦労様でした。――――ああ、待って。ごめんなさい。あと一つだけ。彼女達は、体調が悪くなってから病院へ行っていましたか? それとも体調が悪くなる前? どちら?」
彼の報告の中に病院という言葉は一つもなかった。だのに問いかけたシファに、
「・・・・・・病院とは、病気になってから行くものだと思いますが」
感情のこもらない声が、至極真っ当な返答を返す。微かに声音の中に、馬鹿にしたような響きが混じっていた気がしたが、彼の性格ならその反応も当然だろう。
「おい、キラ、シファ様の質問にちゃんと答えろよ。てめぇの主観なんざ、きいちゃいねぇんだ」
「・・・・・・おまえに命令される筋合いはない」
「んだとっ!!」
形のよい目がぎりりとつりあがる。今にも愛猫に掴みかからんばかりに顔を寄せたルルゥに、しかし声はそれきりぷつりと途絶えてしまった。元の猫に戻ったノーアは、目の前にある主の美しい顔に黒目を丸くし、嬉しげにぺろりとその顔を舐めた。ざらついた舌先で鼻の頭を舐められ、ルルゥは慌てて顔を放す。手の甲で鼻先を拭い、ちっと舌打ちを漏らした。
「シファ様」
青年医師の呼び声にそちらに顔を向けると、ひそめられた眉と強張った顔がある。シファは頷く。くそっ、ユリエラが悪態をついた。
「医者か!」
「健康なときに薬を飲ませて体調が悪くなれば、被害者もおかしいと気付くでしょう。でも、体調の悪い患者に薬と偽って毒を飲ませるのは、簡単なはずです。アシルの姉のジネットも、最初はわたしの所へ訪ねてきました。体を治して欲しいと。ですが、わたしにはただの過労と風邪に見えました。他の被害者も、最初はただの風邪であったり、なんでもない病気だったのかもしれません。娼婦であるなら、多少の蓄えもあったでしょうし、なによりも彼女たちは身を遣う仕事。己の健康は客を取る上で必要不可欠です。医者にかかっていたとしても、おかしくはありません」
「なら、シファ様。その病院がどこか、キラに調べさせなくていいのかよ」
「病院なら、アシルに聞けばいいのですよ」
シファはにっこりと微笑んだ。




