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道々に彼の姉の症状を尋ねる。
二週間近く寝込んでいた姉を病院へ連れて行き、そこで薬を処方してもらった。しばらくは調子が良く、すっかりと回復したように見えた。
「だけど、また寝込むようになったんだ。しかも、前よりもひどくなった。薬がなくなったせいかもしれない。だから、俺すぐに薬を買いに行ったんだ。だけど、すごく高価くて」
高価な薬を買う金は、あっという間に底を尽きた。薬を飲んでいる間は調子がよいのに、薬が切れたとたんジネットの症状は以前よりも悪化する。その繰り返しだ。両親が残してくれた唯一の形見だったブローチと時計を売ってまで作った金も、すぐに薬に消え、そしてそれはほんの短い時間しかジネットを救ってはくれない。
マダム・イルヴァに前借りしたお金も、生活費に溜めていた貯金もすべてなくなり、悪化する一方のジネットの容態に絶望し、最後の最後でアシルは、殉血の聖女に頼ることを選んだ。もうそれ以外に、彼には方法が思いつかなかったのだろう。
夜の路地を足早に、真っ白なダルマティカ姿の修道女と、子どもと、美貌の少年と、白猫が通り過ぎる。教会のある二十五区から、アシルの家があるという二十三区までの道には盛り場が多い。すぐ近くに娼館街があるせいだ。酒を飲み女を抱く。日々を過酷な労働に従事するものにとって、それは数少ない娯楽であり現実からの逃避だ。
日付も変わろうかという遅い時刻、外を出歩くものがいるとすれば酒場と酒場を渡り歩く酔っ払いか、客をまだ見つけられていない娼婦ぐらいだ。善良な一般市民は、今日一日の疲れを癒すために、床に着いている。
路地でだらしなく蹲っている男や、げえげえと安酒で胃を焼かれ汚物を吐き出しているもの、暗い笑みを浮かべて客の手を引く女たちの間を、三人は急いで通り抜ける。時折こちらを娼婦と間違った酔っ払いが声をかけてくる。手を伸ばしてきたものには、すかさずルルゥの拳か、白猫の爪がお見舞いされる。
「ルルゥって案外強いんだね」
修道女の格好した娼婦なんて珍しいなと、シファのウィンプルを掴んだ男の顔面に拳をお見舞いしたルルゥに、尊敬と感心の入り混じった視線をアシルが向ける。殴られた男は路地に仰向けにひっくり返った。
「まーな。強くなきゃ、こんな世界やってけねぇよ。って、シファ様、そんな奴ほっとけよ」
目を回している男のことが気になって傍らに屈み込んだ彼女の手を、ルルゥが引っ張って先を急ぐと急き立てた。街燈の乏しい道を、ルルゥは躓くことなく、確実にシファの手を引いて歩いていく。シファのもう一方の手は、アシルの手を握っていた。
子どもの手は、暖かい。そして、シファが握る以上の力で握り返してきた。
その手が突然放されたのは、彼の家の前でだった。ぱっと飛び出すように玄関に飛びつき「姉ちゃん」と叫びながら、家の中へ駆け込む。その後へ、二人が続く。二間しかない家は、しかし親を失った下層区の子どもが暮らすには上等な部類に入るだろう。親がいくばくかの金を残してくれていたのかもしれない。
寝室はその奥にあり、ジネットはそこに寝かされているようだ。
シファが寝室に入ると、アシルはジネットの眠るベットの傍らに跪いて必至で名前を呼んでいた。
狭い部屋だ。窓一つない。小さな寝台が二つ並んでいるが、それだけで部屋の中は隙間がなくなってしまう。サイドテーブルに置かれた質の悪い小さな蝋燭だけが唯一の光源だった。
「姉ちゃん、姉ちゃん。なぁ、聖女様連れてきたよ。起きてよ、姉ちゃん」
反応しない姉を啜り泣きながら揺するアシルの肩越しに、もしかして手遅れだったかと背中を冷たい汗が伝う。しかし、近づいて見れば薄いシーツの下で微かに上下する胸が見えた。シファはほっと息を吐き出す。
ひどい顔色だ。まるで死人と変わらない。アシルと場所を変わり、シファは自分とそう歳の変わらない少女の手をとった。氷のように冷たい。閉じられた睫の先が、細かく痙攣している。
眉根が寄った。彼女は医者ではない。だから、診察といっても病状の軽重を見た目から推し量るぐらいだ。シファの血は、その病状の重さに関係なく発揮できる。
――――しかし、今回ばかりは都合が悪い。
「ルルゥ、すぐに辻馬車を拾ってきてください。ユリエラのところへ彼女を連れて行きます」
入り口に立って中の様子を伺っていたルルゥが素早く動く。足元にいた白猫もまるで同意するように、みゃあと鳴いた。シファはすぐさまシーツを彼女の体に巻きつける。
「他に何か、毛布かなにかありませんか。このまま外に出しては、体の負担になるかもしれません」
「え? え? どういうことなの? 聖女様は血をくれるんじゃないのか?」
「そのつもりでした。でも、事情が変わりました」
大きく見開いた子どもの目に、みるみる涙がたまる。彼は、弱々しい手でシファの肩を掴んだ。
「お金なら払うから、お願いします! 姉ちゃんを助けてください!」
アシルは以前、シファに姉の治療を断られたのは、寄付金が払えなかったからだと思い込んでいる。確かに、患者の家族の中には治療の後に頼みもしないのに感謝の気持ちだと多額の寄付を置いていくものもいた。それをゴシップ誌の記者に面白おかしく書きたてられていたのは、知っていた。
もらえるものを拒んだことがないのは、シファたちとて金がなければ生活することができないからだ。しかし、寄付を強要したことはなかったし、以前ジネットを治療しなかったのは、寄付のこととは無関係だった。
が、そんなことをわざわざ説明しているような状況ではなかった。言い訳にしか聞こえないことを、絶望に彩られた子どもに説いたところで意味はないだろう。
シファはアシルの手に、自分の掌を重ねた。真っ直ぐに少年の瞳を見つめ、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「よく聞いて下さい、アシル。わたしの力も万能というわけではありません。今のあなたのお姉様には、むしろわたしの血は助けにはならず、毒となるでしょう」
「え?」
子どもの瞳が丸く見開かれる。
「わたしの知り合いに、腕のよいお医者様がいます。そのもののところへ、これから彼女を連れて行きます。あなたもついていらっしゃい。大丈夫。お姉様は、そのお医者様が必ず助けてくださいますよ」
安堵させるように一度笑いかけ、さあ、早く毛布をと促す。彼女の体をそれで包み込んでいると、ルルゥが戻ってくる。
「馬車の用意できたぞ」
表に待たせた馬車に、最初にジネットを抱えたルルゥが乗り、後にシファとアシルが続いた。




