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マダム・イルヴァの気遣いで姉弟は仕事を切り上げて帰ってもよいと言われたが、姉は自分一人で大丈夫だと言い張った。自分が休むことで唯でさえ迷惑をかけているのにアシルまで休ませるわけにはいかないという気持ちがあったのだろう。それに二人も休んでしまえば、給金も落ちてしまう。結局アシルは姉を心配しながらも残り、昼の時間の空いているルルゥがジネットを家まで送り届けてくれた。
それでも通常の時間よりも、早くに帰らせてもらえた。急いで家に戻ると、姉は以前のようにベッドの中でぐったりしていた。眩暈がひどく、起き上がれないのだという。その上時折咳をするようになった。その中に、血が混じっていることに気付き、アシルは身が凍った。
浮かんだのはドロシーのことだった。血を吐いて死んだという。
弱々しい息の下でジネットは薬が欲しいと言う。あの薬を飲めばまた良くなる気がすると。確かにあの薬を飲んでから、ジネットの体調は抜群によくなった。しかしとてもジネットを動かせそうにはなく、医師の下へ連れて行けそうになり。馬車を頼めば出来なくもないが、もちろんそんな金などあるはずがない。
アシルは、自分が貰ってくると家を飛び出したのだった。
先日尋ねた診療所へ出向き、受付でチェスター医師に会いたいことを告げた。彼は診療室に入ってきたのがアシルだけなのを見て、おやと言う表情をした。
「お姉さんはどうしたんだい? 今日は君が診察に来たのかな?」
「違うんだ! 姉ちゃんが、また具合が酷くなって。薬を貰ったときは一時良くはなったんだけど、今はまた酷くなってるんだ。ここまで連れてくるのも難しいぐらいで、だから、俺が変りに薬を貰いに来たんだよ。ねぇ、先生、薬をまたもらえれば姉ちゃんは、また良くなるよね?」
不安で押し潰れてしまいそうな胸を押さえて、アシルは医師に詰め寄った。チェスター医師は最初こそ驚いたようだが、ほんの少し困ったような顔をした。ぽんとアシルの肩に両手を乗せる。
「悪いけど、勝手に薬を処方することは出来ないんだよ。決まりなんだ。薬は本人の診察と承諾の確認がいるんだ」
「で、でも姉ちゃんはベッドから起きるのも無理なんだよ!」
アシルは叫ぶように言った。どうやってジネットをここまで連れて来いというのか。泣き出す寸前のアシルを見て、医師は弱り果てたようだった。ぽんぽんと肩を叩くと、患者用の椅子に座るよう促がした。
「わかったよ。私から薬を処方することは出来ないけど、同じ薬を扱っている店が近くに一軒だけあるから、そこに行けばきっと譲ってくれるはずだ。ただ、少しばかり割高になるんだ。本来は医者にしか売らない薬だから。君は、お金を持っているかい?」
お金。アシルはとっさに言葉に詰まる。しかし、急いで言った。
「お、お金なら大丈夫! お金より姉ちゃんの方が大事だ!」
きっぱりと言い切ったアシルに、チェスター医師も深く頷いた。
「ああ、そうだね。人の命はお金では買えない。だから命は大事にしなくちゃいけない。どれだけお金を払ったとしても、失った命は戻らないんだから」
チェスター医師はアシルの目を見て、まるで言い聞かせるように言った。その言葉が、彼の胸に強く強く響いた。医者として、いくつもの患者の死を見てきたものの言葉だからこそ、胸に強く残るのかもしれない。迫力と威厳があった。
アシルは強く強く頷いた。
「先生、薬屋の場所を教えて!」
なんとか、今用立てられるだけの金は持ってきた。そのお金であるだけの薬を貰ってこようと思った。
彼に教わった店へ急いだ。
それは診療所から路地を二つほど挟んだ所にあった。狭く細い道は裏路地と呼んでもいいだろう。日の当たらないじめじめとした道の真ん中の、汚れた壁に今にも押しつぶされそうな、古い建物の一階が教えられた店だった。看板はない。小さなドアが一つついているきりだ。恐る恐る開けて中に入ると、空っぽのカウンターの前に、男が一人座っていた。男はじろりとアシルを見ると、ここは子どもの遊び場じゃねぇぞと言った。しゃがれた声は、安酒の呑みすぎて喉が潰れたせいだろうか。
店の中には男以外に人の気配がない。棚とカウンターは商いをしている店の格好だが、そこに陳列しているものが一つもないのが奇妙だった。普通薬屋にはある秤も置いていない。本当にここでいいのだろうか。
不安な面持ちで、おずおずと店の中へ入る。すぐに出て行くと思っていた子どもが真っ直ぐにカウンターの前までやってきたことに男は意外そうに目を見張った。そうすると、目尻に赤い傷があるのが目に付いた。
「なんのようだ、坊主」
「薬をください」
アシルはそこで、チェスター医師に言われた言葉を思い出した。慌てて言い直す。
「あ、赤い花の咲く薬をください」
そういえば薬を奥の棚から出してもらえるからと、教えられたのだ。男はしばらく値踏みするようにアシルを見ていたが、立ち上がって店の奥に入ると、しばらくして薬を持って戻ってきた。
「いくら持ってる?」
アシルは財布を開けて中の金を数えた。それを男に伝えると、男は顔を顰めて舌打ちした。
「少ねぇな。それで本気で薬を買うつもりかよ。ふざけんじゃねぇぞ。この薬はなぁ、滅多に手に入らねぇような貴重品なんだよ」
「で、でもそれがないと姉ちゃんが病気で死んじゃうんだよ!」
「てめぇの姉貴なんて俺が知るか」
男は吐き捨てる。そして、もう一度じろりとアシルを見ると、薬の束から三つだけを取り出して、投げてよこした。
「代金よこしな。てめぇの持ってる金だけじゃ、これだけしかやれねぇな」
床の転がった薬を拾い集めて、アシルはたった三つじゃ足りないと言おうとした。しかし、男の目は冷たく、アシルが何を言ったところでどうにもならないだろうことは見て取れた。財布の中の金は、彼がコツコツと溜めてきたアシル個人の貯金だった。それを全額カウンターの置くと、急いで店から出た。
三粒では、一日分にしかならない。家には、あとどれぐらい薬を買う金があるだろう。走りながら考えるが、せいぜいあと数日分だ。どうしよう。どうしよう。それまでにジネットの病気は治ってくれるだろうか。言い知れぬ不安が胸の奥から湧き上がる。それは涙を引寄せようとするが、必至で堪えた。泣いても、どうにもならない。泣いて許されるのは、庇護者のいる子どもだけだ。アシルにもジネットにも、そんなものはいない。
どうにかしなくては。
――――しかし、どうにもならなくなるのはすぐだった。




