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イルヴァの館に戻ると、門の前に立っていた同じ下働きの少年が、アシルに気付いてはっと駆け寄ってきた。
「アシル、おまえ今までどこ行ってたんだよ!」
「どこって、お使いだよ。じゃがいもとベーコンを買ってくるように、コリーに頼まれたから」
「馬鹿!」
何故怒鳴られるのかわからない。アシルは血相を変えている友人に目を白黒させていると、彼はぎゅっとアシルの腕を掴んだ。
「ジネットが、倒れたんだ」
瞬間、頭が真っ白になった。先ほどのメイジーの顔、弔いの鐘の音、空の青。それらがぐるりと目の前を通り過ぎる。アシルは荷物を放り投げて、走り出していた。姉がいつもいるのは、厨房だ。廊下を駆けるアシルに驚いた娼婦が、飛び跳ねるようにして道を開ける。
厨房には、大勢集まっていた。姉の姿は、小柄なアシルには人の背に隠れて見えない。どこにいるんだろう。焦って無理やり割って入ろうとすると、誰かが「アシルが来たよ」と声を上げた。人垣が割れて、道ができる。その中央でぐったりと横になっているジネットの姿が見えた。
「姉ちゃん!」
アシルは姉に飛びついた。
「こら、乱暴にすんな」
しがみ付いて揺すろうとしたアシルの手を無理やり引き剥がしたのは、ジネットを腕に抱えていたルルゥだった。彼は紫色の瞳をアシルに向け、すぐにまた姉に向ける。
「気分が悪いって倒れたんだ。頭は打ってない、偶然側にいた俺が上手く受け止められたから」
「姉ちゃん?」
震える声で呼びかけると、閉じられていた瞳が開いて茶色い瞳がアシルを見た。
「アシル?」
「姉ちゃん!」
「ごめんね。ちょっと眩暈がしただけなの。少し休めばすぐに平気になるわ」
微笑んだ顔は、傍目にも無理しているのがすぐわかる。病気だった頃に逆戻りしたような青白い顔色。慌てて握り締めた手は、氷のように冷たかった。どっと不安が押し寄せてくる。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
とても大丈夫なようには見えなかった。せっかく元気になったとおもったのに、どうして。心配と不安で心が潰れてしまいそうだ。見る間に姉と同じように顔色をなくしてくアシルを見ていたルルゥは、空いた方の手でぺちりと彼の頬を叩いた。
「こら、しっかりしろ。お前が取り乱してどうするよ」
「あ、ああ、うん。ごめん」
その通りだった。アシルは叩かれた頬から感じる痛みで、自分を正気づかせる。そのとき頭の上から声が落ちて来た。
「今日は、もう帰りな」
振り向くと、この館の主であるマダム・イルヴァが立っていた。輝くような黄金の巻き毛を無造作に胸元にたらし、くっきりとした目鼻立ちを強調するような化粧が施された顔は、そろそろ四十になろうというのに、まったく色気の衰えぬ美貌だ。
「大丈夫です」
姉が細い息の下で言った。
姉がそう言うのには理由がある。これ以上休み続けると、本当に職を失ってしまう。そうなれば、次の仕事を探すのは難しい。とくにここよりも条件も給料もいい仕事場など、二度とないだろう。 姉の給金が生活の要だった。それを失えば、もはや二人は身を売るしかなかった。
ジネットはルルゥの腕から出ようと身を捩らせた。それを止めたいのに止められない。アシルにも、生活の苦しさがわかるからだ。そしてそれは、マダム・イルヴァにも伝わったらしい。彼女は豊かな胸の前で腕を組むと、やれやれと首を振った。
「病みあがりに無理をしたんだろうさ。これ以上無茶すると、もっとひどくなるよ。いいのかい? 仕事のことだけど、こんなことでクビにしやしないよ。あんたの作るじゃがいもとベーコンのスープはあたしも大好きなんだ。腕のいい料理人をやめさせたんじゃ、娼婦達の仕事の士気にも関わるからね。安心おしよ」
マダム・イルヴァは嫣然と笑った。
「今度はしっかりと休んで体を直してから、出ておいで」
姉の瞳の縁に涙がたまって行くのが見えた。アシルはもし、ここに誰もいなかったら姉を抱きしめてやりたいと思った。
「ありがとうございます」
声の震えたジネットに、マダム・イルヴァは声を上げて笑う。
「よしとくれよ。あんたのためじゃない、あんたの作る料理が恋しいからしてるだけだよ」
その乱暴な優しさが嬉しかった。自分まで涙が出そうになって唇を噛み締めていると、ルルゥと目が会った。彼は唇を歪めるような、からかうような表情で笑った。




