10
その日、アシルは館の外へお遣いに出されていた。昼の賄い材料を買い足すためだ。薬が今朝の分で終わり、すっかり元気になったジネットは、元の生活に戻るべく今日から職場復帰を果たした。挨拶に行ったマダム・イルヴァは姉が元気になったことを喜んでくれて「今日からまだばりばり働いてもらうからね!」と叱咤する。娼婦たちは「またジネットの作る食事が食べられるなんて嬉しいわ」と手を叩いた。
下層区では日雇い労働でさえ見つけるのが難しい。ましてやアシルもジネットも親のない子どもだから、なおさらだ。本来なら、数日仕事を休んだだけで見限られて当然だというのに、イルヴァの館の人たちは邪険にするどころか優しく受け入れてくれる。その温かさが、姉弟には涙が出るほど嬉しかった。
姉が久しぶりに腕によりをかけて作る賄いのため、奮発した料理長がアシルに金を持たせて、買出しに行かせた。ジネットは、まだ若いが料理の腕は一級品だ。普段は仕事のない娼婦や下働きたちの賄料理を作るのがおもな仕事だが、ときぞき客相手にその腕を振舞うこともあったし、客の中にはジネットをわざわざ指名するものもあった。
だからジネットの手料理を常に独占しているアシルは、皆に羨ましがられる。自慢の姉だった。
手提げ籠いっぱいのじゃがいもと、ベーコンの塊を抱えて、館へ戻る。腕にずしりと響く重みは、しかし姉が元気になったからだと思えばく苦にはならない。小走りに館への道を戻っていると、ふと通りの向こうに見知った顔を見つけた。この間ルルゥと一緒にいたときに声をかけてきた娼婦だ。
それだけなら、きっと気付かない振りで通り過ぎただろう。アシルはお使いの帰りだったし、女はアシルに気付いていない。しかし、アシルがそれでも彼女に声をかけたのは、女が立っていたのが聖女のいるエル・タリア女神教会の門の前だということと、ひどく沈んだ顔をしていることに気付いたからだった。
「そこにいる聖女は偽者で、本当は魔女だよ」
彼女も、アシルたちのように奇跡の力を聖女にすげなく断られたのだろうと思ったのだ。
「え?」
突然かけられた声に驚いた女が俯いていた顔を上げる。眦が赤い。泣いていた証拠だ。女はアシルを見て、目を瞬かせた。
「あんた・・・・・・?」
「アシルだよ」
「え? なに?」
「俺の名前」
「あ、ああ、ルルゥと一緒にいた子だね。覚えてるよ。あたしは名前を教えたっけかな? まあ、いいや、メイジーって言うんだ。あんたその大荷物、お使いかい?」
「・・・・・・なにかあったの?」
「ちょっとね」
メイジーは頬を痙攣させた。どうやら笑ったつもりらしかった。彼女はほとんど化粧をしていなかったし、ひどく地味な黒っぽい服を着ていた。
「今日は仕事をしないの?」
「え? この格好のこと? あたしの仕事はもっぱら夜だからね。今日も道に立つつもりだよ。だから、家に帰って支度しなきゃね。それに少し眠らなきゃ・・・。ああ・・・でもあんたには言っとかなきゃなんないことがあったんだ・・・。ここで会えてよかったよ」
虚ろに彷徨っていた視線が、ゆるりと動いてアシルを見る。その表情にはまったく覇気がない。アシルは眉を潜めた。
「本当にどうしたの?」
この間会ったときは、もっと笑っていた。アシルを小馬鹿にしたように振舞って、胸を張った気の強い女に見えた。多少年増ではあるが、女は肉付きのいいふくよかな体をしていたし、あけすけな物言いや勝気な性格は、男に好かれたはずだ。だが、今は見る影もない。まるで萎れた花だ。
アシルの問いに、女は困ったような泣きそうな顔をした。大きく迫り出した胸を上下させる。
「さっきまで、あたし葬式に出てたんだ」
「え?」
「そこの教会だよ。なんでも聖女様が口利きしてくれたとかでさ、司祭様がちゃんと埋葬式を行なってくれたんだ。聖歌もさ、してくれてさ。あたしらみたいな貧乏人は、墓を持つ事だって難しいってのに、ちゃんと墓地まで用意してくれてんだよ。ありがたいよね」
薄化粧と黒く地味な服は、死者を悼むための装いだったのだ。と、そのとき突然頭の上に鐘の音が落ちて来た。弔鐘だ。アシルは空を見上げた。彼女も同じように空を見上げ、顔を歪めた。
青く綺麗な空だった。雲ひとつない。鐘の音に驚いたのか鳥達がいっせいに空へと舞い上がった。死者の魂を天へと運んでいるのかもしれない。
「いま、あの子が埋葬されてるんだ。あたしは辛くてね・・・・・・途中で出てきちゃったんだよ」
「誰が、死んだの?」
「ドロシーが・・・・・」
彼女はそこで言葉をとぎらせ、何かを喉奥に飲み込むような仕草をした。そして深く深呼吸するように息を吐き出すと、話を続けた。
「ドロシーが死んじまった。あんたには、あの子のこと探してくれるように頼んでただろ。でももう必要なくなったって教えなきゃって思ってたんだ。・・・・・・あの子、死んでたんだ」
その名前を、アシルは今の今まで思い出さなかった。メイジーが妹のように可愛がっているという娼婦仲間だ。アシルは、その子がイルヴァの館にいるかどうか探してくれるよう頼まれていた。
すっかり忘れていたことを素直に話すことは出来ない。後ろめたさに、視線を彷徨わせる。そうか、死んだのか。確か病気だと、言っていた。もしかしたら流感だろうか。今流行っているという。アシルは姉の顔が浮かんだ。
「かわいそうにね。病気だったのに無理して、仕事に出て、それで死んじまった。道端で冷たくなってたのを、自警団が見つけてくれたんだ。血を吐いてたってさ。あの子が調子が悪いって言ってたとき、無理してでも医者に見せたげれば良かったよ」
声にたっぷりと滲んだ後悔が、ドロシーの死の責任を、自分のものだとメイジーが思っていることが伝わる。アシルは女を見上げた。慰めの言葉を言うべきなのだろうと思ったがなにも浮かんでは来なかった。所詮、何を言ったところでアシルにとっては他人事でしかなく、女にもそのことはわかっているはずだ。
いつまでも他人の死を悼んでいるような時間は、下層区にはない。無理やりにでも心に折り合いをつけなければ、自分まで埋葬されることになりかねない。
日々の暮らしの中では、死を嘆く感情さえ遠い。
「元気だしなよ」
お定まりの言葉を口にしたアシルを、女は今度はなんとかわかる微笑を浮かべた。
「そうだね」
メイジーが頷いた。彼女は教会を振り返ると、「ドロシーに最期の別れを言わなきゃね」と戻って行った。それを少しの間だけ見送り、アシルは自分がお使い帰りだったのを思い出し、急いで駆け出した。




