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 それは沈み始める夕日に空が一面赤く染まる時刻のことだった。一頭の箱馬車が、二区の外れにある屋敷の裏門の前で止まった。上層区の中でも二区は、王城に近いために王族や大貴族の邸宅ばかりが立ち並んでいる。区内には歴代王の戴冠式や埋葬地となっている大聖堂もあるほどで、外れにあるとはいえどその屋敷はかなり立派なものだった。広大な敷地の半分は人工の森で埋められ、緑の木々の中に赤煉瓦の小塔や煙突が見える。

 金雀枝の舘と、呼ばれている屋敷だった。

 門の前で馬車が来るのを出迎えていたのは、屋敷の執事だ。その馬車の扉が開かれ降りてきたのは、純白の修道服姿のシファだった。もっとも、彼女の場合平時がすでにその格好だ。彼女の後ろから、もう一人の修道女も続く。彼女は一般的な濃紺の衣装だった。

 執事は慣れた様子で二人を屋敷の中へ招きいれると、応接間や客間などではなく、真っ直ぐに主の寝室へと通した。それは、シファがこの屋敷を訪ねる中では、頻繁ではないが何度かあったことだった。

 天蓋から落ちるカーテンが括ってあったので、その中で半身を起こしている屋敷の主の姿がはっきりと見て取れる。彼は、シファを見て微笑んだ。

「やあ、今日はこんな格好で失礼するよ。朝に少し熱が出てね、僕は大丈夫だといったんだが、主治医が煩くてね」

 ゆったりとした笑みを浮かべる顔は、ひどく蒼褪めている。シファは僅かに眉根を寄せ、寝台の傍らへと歩み寄った。身を起こしているといっても、実際はいくつも重ねたクッションに背中を支えられて、ようやっと起きているような状態だった。

「お加減が悪いのでしたら、もっと早くにわたしを呼べばよかったのに」

 思わずそう呟いたシファに、ハーティス・セシル・オービエニは苦笑めいた笑みを浮かべた。柔らかな栗色の巻き毛を額に落とし、線の細い顔立ちをしている。幼い頃から病弱で、彼は人生のほとんどを日の当たらぬ建物の中で過ごしてきたのだそうだ。

 一ヶ月に一度、シファは彼の治療のためにこの屋敷を訪ねることを習慣にしていた。彼には、恩がある。シファ達をこのノーサスの街へ連れてきてくれたのも、あの教会を与えてくれたのもすべてハーティスだ。今の自分たちの暮らしがあるのは彼のおかげだ。だから、彼のために出来うる限りのことをしようと決めている。

「それほどたいしたことはないんだ。主治医が大袈裟にしているだけのことさ。少々の熱でも、うちの主治医は大騒ぎをして困る」

「それなら良いのですが・・・。あなたが素直に主治医の言葉を聞くともわたしには思えませんから」

 病弱で弱々しげな外見に反して、ハーティスが気の強い一面を持っていることをシファは知っている。例え主治医がどれほど言いつけたところで、彼が嫌だといえば押さえつけることは出来ない。

 シファは手を伸ばして、ハーティスの額に触れた。その熱さに、少しばかり顔を顰める。とても少しの熱と言えるような体温ではなかった。

 彼が客の前でもベッドから起きようとしないのは、主治医に言われただけではなく、それが彼にとって難しかったからだろう。それを彼女の前で見栄と強がりで、誤魔化して見せようとしているのだ。

 彼女の嘆息に、ハーティスは僅かに首を竦めた。

 そのとき、ノックの音が響いて、執事が紅茶を運んできた。ちょうどいいとシファは、紅茶を注いだばかりのカップを横から一つ奪い取る。執事は特に何も言わなかったが、一瞬だけ主へ視線を向けた。この屋敷で彼女と主の関係を知る者は、執事と馬車の御者だけだ。

「ユーニス、ナイフを」

 共に連れてきた修道女に手を差し出す。すぐに小型ナイフがのせられた。指先を切りつけると、溢れ出た血を紅茶の中へ一滴落とした。それはすぐに琥珀色の液体の中に溶けて、消えてしまう。

 彼女は自分の血が入った紅茶を、ハーティスに差し出した。彼は無言でそれを受け取る。

「少しは体が楽になるでしょう」

「・・・・・いつもすまない」

 ハーティスは短く礼を言うと、一気に紅茶を飲み干した。カップから口を放すと、深々と息を吐き出す。数回深呼吸を繰り返した後、シファを見上げた。彼女は彼の顔色がぐっと良くなったのを確認して、柔らかく微笑んだ。

「ああ、本当に楽になったよ」

「もう少し摂取の回数や量を増やせば、あなたの体もずっと良くなるでしょうに」

 シファは思わず言っていた。月に一度、たった一滴の血を摂取するにとどめるのは、ハーティス自身の意思だった。病弱な彼の体を完全に治癒するには、もっと摂取量や回数を増やす必要があるのだが、それを知っていながら彼自身が嫌がったのだ。

「私は今のままで充分だ。子どもの頃からのこと、この不自由な体にはとっくに慣れている。いまさら不便なんて感じていないつもりだよ。なによりも君に出会えたおかげで、今は多少なりとも楽にになった。それだけで私は満足しているんだ」

 シファはハーティスの笑った顔を見た。

 無欲な人だと思う。無欲ゆえの傲慢さを併せ持った人だとも。彼は莫大な資産と名誉を持つ貴族の一人だ。広大な敷地に多くの召使を抱え、何不自由なく暮らしている。あらゆる物を手にしていながら、たった一つ健康だけを持たない。それを哀れと捉えるか、贅沢と捉えるかは、人それぞれだろう。

 下層区の人間なら、健康でなければ金を得ることが出来ない。健康でなくとも生きられる彼の人生を羨ましく思うことだろう。上層区の人間なら、あらゆる富貴を手にしていながらその人生のほとんどを、屋敷の中で過ごすしかない不自由さを哀れと思うだろう。

 もっともハーティス本人は、不幸とも幸福とも考えていないに違いない。今手にあるもの、それをただ受け入れて、当たり前と思うだけ。それ以上も以下でもない。無欲で傲慢。そういう人だ。そして、そんな考え方をするハーティスを、シファは気に入っていた。

「シファ様」

 ユーニスに名前を呼ばれ振り向くと、彼女の手に白いハンカチが握られていた。ああ、と右手を差し出す。ユーニスは手早く傷口の血を拭い、止血をした。病人や怪我人を治すためにしょっちゅう傷を作っているシファのため、ユーニスたち他の修道女や司祭のアーシェラはすっかり手当てが上手くなってしまっている。

「相変わらず、ずいぶんな手だな」

 ぽつりと零された言葉にシファが、視線を上げる。榛色の瞳が、じっと彼女の傷だらけの手を見つめていた。

 白く細い手てには、あちこちに赤と茶の線が走っている。赤いのはまだ完治し切れていない傷で、茶色いのは完治途中の傷だ。時には醜く引き攣れ、時には薄い影のように、それは少女の指先から手首を縦横に走り回っている。袖口の長い修道服のため露出している部分が手首の辺りまでのため見えている傷はそこまでしかないが、、傷は肘を通り過ぎ二の腕の辺りにまで及んでいた。それはまるで、シファの体を食もうとする、小蛇の蠢きにも似ていた。

「レディの手とは思えないよ」

 皮肉というよりは、痛ましさへの助言のようにも聞こえる声だった。シファは微笑んだ。膝の上に重ねた二本の手を見る。

「アーシェは、手袋をつけてはどうかというのですが、わたしは今のままで充分だと思っています。わたしにとってこの手の傷は何一つ恥じることのないものです。この傷こそが誇りですから」

 人によっては確かに醜く、そして痛ましく映るものだということは知っている。だが、この傷の数だけ、自分が誰かの命を救えたということだ。それはシファにとって、この世界に生きることを許された証だ。

 胸を張って言いきる少女に、ハーティスは眩しいものでも見るように目を瞬かせた。そして、薄い苦笑を唇に刷く。

「君のその強さを、時々羨ましく思うよ」

 心の底からの言葉に、しかしシファは微笑みを返しただけだった。

 そこへ紅茶を置いて一度は出て行った執事が再び戻ってくる。今度は茶菓子を運んできたようだ。皿にのった可愛らしい砂糖菓子に思わず視線を向けていると、

「ところで、君の医者の所から盗まれた例のアレはどうなったんだい? 見つけられたのかい?」

「いえ、まだ。捜索中です」

「そうか、まだ見つかっていないのか・・・・・・。恐ろしいことだね。あの毒が世に流れ出たとなると、いったいどれほどの人が被害にあうことか」

 難しそうな顔でハーティスは呟くと、執事が入れてくれた二度目の紅茶に口をつけた。

「盗んだ相手の目星は付いているのかい?」

「上流階級の人間だろうというぐらいしか、いまのことろは。わからないのはそれ以外にも、なぜあれがユリエラのところあったことを知っていたのかということも、まだわかっていません。キラは調べることが多すぎて、大変だと漏らしていました」

 シファがその毒をユリエラに預けたことを知っているのは、ごく限られた人間だけだ。いわばシファにとって大切な仲間の間だけ。――――裏切り者の存在は、考えたくなかった。今にも漏れそうになる嘆息を押し殺し、シファはあえて話題を変える。

「おいしそうなお菓子ですね。頂いてもかまいませんか?」

「ん? ああ、どうぞ。最近巷で評判の菓子屋で買ったものだ。お土産にも、いくつか用意しているから持って帰るといい」

「まあ、それは嬉しい。ここに来る一番の楽しみは、美味しいお菓子にありつけることですね」

 シファが、傍らに控えるユーニスに向かって同意を求めると、少女も同じようにこくりと頷いた。しかし、とたんハーティスが非難の声を上げる。

「お嬢さん方、僕はお菓子よりも劣るってわけかい? なんて淋しいことを言うんだろうね」

 さめざめと泣き出したハーティスのそれが冗談だとわかっているシファは、逆にころころと笑い出した。

「もちろん、あなたに会うことも楽しみの一つですよ」

「だけれど、菓子には劣るんだろう? いいさいいさ、仕方がないよ。昨今のお嬢さんが方は甘いものに目がないらしいからね。殉血の聖女が、世にいる普通のお嬢さんと同じ感覚の持ち主で、僕は逆にほっとしているよ」

 拗ねたように口を尖らせた青年は、確か今年で二十五になるはずだが、ずいぶんと子供っぽい仕草に、シファはユーニスと顔を見合わせ同時に噴き出してしまった。


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