chapter12「トロッコ問題」
出されたカップに淹れられた紅茶を飲み終え、10分くらいが経った頃
先生は優しく微笑んだ
「それじゃあ次の質問にしようか」
「はい」
私はいつも通り無表情だっただと思う
父が遺した借金は亡くなって初めて知らされた
その多さに母は身をくらませた
学校へ通う私は身を隠すことが難しく、どこへ行ってもすぐに見つけられた
その内逃げることを止め、隠れることを止め、抵抗することを止めた
男のそれを咥えた数を数えることも止めた
いつかその数だけ殴ってやろうと思っていたのに、そんなひっそりとした復讐心を持つことも止めた
その頃だったと思う
上辺ですら表情を作らなくなったのは
「そういえば泊まり込みだと急に言ったとき、少しも驚かなかったね。だからそのまま質問を続けてしまったけど、家の方に連絡をしなくても大丈夫かな」
「連絡するべき人はいません」
「そう。一人暮らしなんだ」
「いいえ、今は実家です。でも、誰もいません」
適当に返すことは出来たはずなのに、何故か正直に答えた
「…そう」
先生は寂しそうに微笑んだ
「質問をするね」
「はい」
さっきよりも優しい言い方だった
私はさっきよりもなにかに感情が振れた返事が出来ただろうか
「線路を走っていたトロッコの制御が不能になってしまった。このままでは前方で作業中の5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう」
「何故作業中にトロッコが走行しているのですか」
「人為的なミスだよ。このときA氏はたまたま線路の分岐器のすぐ近くにいた。線路を切り替えれば切り替えた先にいるB氏が死んでしまう。A氏は線路を切り替えるべきだと思う?」
5人を救うために1人を殺すか
5人を見殺しにするか
数的な話しで言うなら、大勢が助かる道を選ぶべきだろう
だが、そのためには「自分が行動して」1人を殺さなくてはならない
普通は躊躇う
「切り替えるべきだと思います」
「理由を教えてくれるかな」
「A氏がすることはあくまで「線路を切り替える」という行動だけです。その先になにが待っているのか知っていようとも、「A氏が殺した」わけではありません。大勢が救える方が良いと思います」
人は生きているだけで誰かを傷付けている
苦しめている
生きるという行為は自分のためであるはずで、それなのに他者に悪影響を及ぼす
死ねば全てが終わるというわけでもない
だって私の地獄は父が死んでから始まったのだから
だから私は
「「なにもしないということも行動のひとつである」と思います。自分の行動で誰かが死ぬ。それは変わらない事実。それなら大勢を救うべきかと」
「なるほど。一理あるね。じゃあこんな派生問題はどうかな」
一瞬――ほんの一瞬
奇妙な笑顔を浮かべたが、本当に一瞬だった
奴らに似た笑顔だった
「A氏は線路の上にある橋に立っていて、A氏の横にはC氏がいる。C氏はかなり体重があって、突き落して障害物にすればトロッコは確実に止まり、5人は助かる。でもC氏が死ぬのは分かるよね」
確認に近い問いに小さく頷く
「どうするべきだと思う?」
少し低い声に何故か背筋が凍った
「トロッコを見送るべきです」
「どうしてかな。犠牲者の数は変わらないよね」
「どのような人物であったとしても、意図的に勝手に不幸にされても良い者などいないからです」
さっきの質問はあくまで5人を助けた結果1人が死んだ、というだけ
でも今回の質問は1人を殺した結果5人を助けることが出来る
これは、大きく異なる
「なるほど。じゃあまた別の派生問題を出そう」
笑顔を見ないために、小さく頷いた
「状況は最初の質問と同じ。でも線路を切り替えた先にいるのはC氏で、線路は後に5人がいる線路へ合流する。どうする?」
「切り替えません。理由はさっきと同じです。トロッコが止まるのは「C氏にぶつかるから」なので」
今度は先生が何度か小さく頷く
「じゃあ今の質問と同じ状況で、線路を切り替えた先にあるのは鉄の塊。でもその手前にはB氏がいる。どうする?」
「切り替えます。理由はトロッコが止まる理由にB氏が含まれないからです」
「分かったよ。この質問「トロッコ問題」はこれで終わり」
先生と私の声しかしていなかった車掌室が、2人とも喋らなくなったことで静かになった
だからなのか、妙に猫の鳴き声が鮮明に聞こえた
奴らから逃げるときに得た特技のようなもので、ある程度遠くの音でも方角や高低差が分かる
猫の鳴き声は近く、私より下の位置から聞こえる
「どうしたの?!」
急に立ち上がって車掌室のドアを開けた私に驚いた表情を向ける
でもそんなこと気にしていられない
さっき電車が来てから1時間は経っている
電車が来てもおかしくない時間だ
私の近くで、私より下の位置から聞こえたということは、目の前にある線路に猫がいることになる
「なにしてるんだ!危ないから上がって!」
「猫が…」
電車の走行音が近づいて来る
早く見つけないと
「…前のキミならきっと助けようとはしなかっただろうね。でも、だから「トロッコ問題」の話しはしなかったんだ」
どういう意味?
というか、走行音がおかしい…
妙に早くて左右に揺れている
「まさか…!」
電車と衝突する寸前、先生はあの奇妙な笑顔を浮かべて言った
「猫なんていないよ」
最後までお読みいただきありがとうございます。
*サブタイトルのチャプター数は誤字ではありません。