温度と、鼓動
「もう、落ち着けって。ほら深呼吸して」
ポンポン、と紗姫は私の背中を叩き、そう言う。そして、ふー、と私が大きく息をついている間に、さりげなく鉄パイプは私の手から取り上げられてしまった。
……むむ。なんだかまるで情緒不安定な人みたいな扱われ方。そして紗姫は私に触れたのち、少し首を傾げた。自分の手を見て、なんだか不思議そうな顔をしている。
「……あれ……?」
あ、やばい。ここは適当にでも何か喋ろう。うん。ということで、私は紗姫に向かって大きく胸を張ってみせた。
「ねえ紗姫聞いて。私、これ以上ないくらい落ち着いてるし」
「落ち着いてその状態の方がよっぽど怖いよ」
「だって……もう、そうするしかないかなって」
「いや絶対そんなことはない。いったん止まろうか」
紗姫の提案に従って、私は足を止める。ここから神社まで、もうあと1キロないくらい。15分程度でもう、着く。ただ、止まったのは私にとっても好都合。紗姫には前もって、お願いしておきたいことがあった。
「……でも、あとどうにかしないのは儀同さんと部長でしょ? 儀同さんは私が何とかするにしても、部長はどうしたらいいかわからないんだもん。まさかこの期に及んで話し合いでどうこうとか言わないよね」
「あー、まあそうだね。部長さんのことはそもそもよく知らないし……って。もう片方は何とかできるの!?」
「部長よりはね」
「え、なに。作戦アリ? ……さっきの鉄パイプもまさかその関係?」
「あ、鉄パイプは全然関係ない」
それを聞いて、紗姫はあからさまにがっかりしたような顔になった。……いや出てる出てる、顔にめちゃくちゃ出ちゃってるから。そしておまけに大きくため息までつかれてしまった。
「なんだよもー、感心したのに」
「でも作戦はアリだよ」
「え、なになに。ちょっとそれ紗姫ちゃんに聞かせてみ」
「えーっとね……」
ごしょごしょ、と紗姫の耳元で囁く私。この作戦には、できれば紗姫の協力が必要だ。私の作戦を聞き、紗姫は腕組みをして考え込んだ。
「まあ……でも、え? うーん……」
おや、なんだか全面賛成、って感じでもないな。これしかないと思うんだけど。やがて、気が進まない、という感じで紗姫は口を開いた。
「でもそれさー、危なくない?」
「ここまで来て危なくない選択肢などあるものか」
「まあそりゃそうなんだけど……莉瑚がそれで死んだら、優佳里が後追い自殺しかねん」
その台詞を聞いて、つい微妙な顔をしてしまう私。そんな私を、紗姫はいぶかしげに見た。あ、さっきから紗姫すごいぞ。私の表情をめちゃくちゃ的確に把握されている気がする。しかしこれはまずいかも。気をそらさねば。
「あのさ、ところで紗姫って好きな本の作者っている?」
「――待って。そうだ……さっきもおかしいと思ったんだよ。……ちょっと手ー貸して」
私の文学的な質問を無視して、紗姫は真剣な顔で手を出してくる。むう。さっきはごまかせたのに。なぜか確信を持たれてるっぽいし……これは真剣にまずいな。もう詰みかもしれないけど、一応最後まで粘ってみよう。
私は両手を勢いよく後ろに引っ込めて、首を左右に振った。
「嫌」
「……なんで?」
「黙ってたけど私、潔癖症なの」
「……言うに事欠いて、このあたしが汚いっての?」
「人間はみな誰しも汚いんだよ」
「んな尖った思想いきなり出されても。いや……え? だって」
紗姫が笑顔を作ろうとしてかひきつった表情を浮かべるのを見て、私は察されたのを理解してしまう。いや紗姫鋭すぎなんだってば。副部長はともかく、優佳里ですら気づかなかったのに。私は後ろに回した手をそっと合わせる。確かに合わさったそこには、もう、何も感じられないままだった。
でも、私はもう抵抗を諦める。近寄ってきた紗姫は、私の後ろに回された手を、何度も触った。何かの間違いだろうとでも思っているのか、何度も。けれどきっと何度触っても、そこにもう温度はない。
「……なんで……?」
「えーっと……まあそういうことでして」
……いつからだろう。きっとあれは、屋敷でDVDを入れた時から? それまでは、血が出なくなっただけで、鼓動と体温はちゃんとあったから。やはり、2と3の間には、大きな差があったらしい。一気に両方消えるとは……やっぱり、あそこで副部長に頼るのが、正解だった? いや。
私はそこまで考えて、少し首を振る。いや、それでも。誰かにこれを押し付けるのは、嫌だった。だから、この結末はおそらく必然だったのだろう。すると、私も向こう側に行ってしまう? 少なくとも異界が閉じる時に中にいれば、巻き込まれて向こう側に行く気がする。なんとなく。脱出すれば部長みたく何とかならないかな。出た後のことはそれから考えるとして。日常で脈拍と体温を測られる機会がそうあるわけでもあるまいし。
「……いつから……?」
「いちおうは……今日屋敷に行ってから、かな」
その前からだいぶおかしかったけど。あれだけ出てた血がいきなり全く出ないというのも、今考えると大きな異変だったのかもしれない。まあ、今になってわかったところで、もうどうしようもないか。
すると紗姫は顔に手を当て、大きく溜息をついて空を仰いだ。さっきとは違う深さの溜息。その表情は、手で隠されて窺い知ることはできなかった。そのまま紗姫はしばらく経っても動かない。……えーっと……。どうしよう。なぜ本人よりショックを受けてるんだ、と思ったけど、それを突き詰めると「今平気な私の方がそもそも異常なのだ」という結論に至ってしまいそうなので途中で考えるのを止めた。でも道の真ん中でこのままだとちょっとなあ。
私は周りをきょろきょろ見回して、少し行ったところにあった小さな公園に紗姫の手を引いて行った。そのまま2人でベンチに座る。上を向くと、雲が速いスピードで右から左に流れていくのが見えた。そういえば朝起きた時は「寒い日だ」って思った気がする。きっと今も風は冷たいのだろう。紗姫が黙っているので、私は足をぷらぷらさせながらどうでもいいことを思いつくままに口にする。
「今日って寒いよね」
「……」
「たぶんだけど」
「……」
「冬だしね」
「あのさ」
「なあに?」
「……なんでもない」
呆れたようにそれだけを呟いた紗姫は、しばらく黙った後に目を閉じて、ゆっくりと首を横に振った。……なんだか見放されたような気がする。私が抗議の意味を込めて視線を送ると、紗姫は下を向いた。そして、吐き捨てるように言った。
「それさあ……危ないから入れるなって言われなかった? 聞いてなかったの?」
「言われたけど……だってしょうがないかなって。入れないと屋敷からも出られなかったし」
「他の人に入れたらよかったじゃん。副部長さんも優佳里もいたんでしょ」
「一応考えたんだけど。他の人に押し付けるのもなんだかなぁって」
「で、その結果がそれ? ……前から馬鹿だ馬鹿だと、思ってたけど……ここまで馬鹿だなんて……」
そういう紗姫の表情は下を向いているからよく分からなかったけれど。うーん……だいぶ心配をかけてしまっている。……でもあれだよね。部長とか見てると、別に人じゃなくても思いっきり現世を謳歌してるみたいだし。そこまで深刻にとらえなくてもいいのでは、という私の意見は口に出さずにおいた。絶対怒られそうな未来が見えたからである。人だろうがそうでなかろうが怒られるのが怖いのは一緒らしい。
「ねえ紗姫もそんなに気にしないで。ほら、本人が気にしてないんだから」
「そういう問題じゃないよ……ほんとに。なんで、なんでそんなことすんの……」
あれ……今やっとわかったんだけど。これ紗姫、思った以上にガチ凹みしてるのか。全然顔上げてくれない。えーっとえーっと。これどうしたらいいんだろう。私は紗姫の服の袖を引っ張ったり、つんつんつついてみたりしたものの、全く反応がない。
紗姫が口をつぐんでしまったので、私は再び思ったそのままに口を開く。
「でも……なんだか、わかった」
「なにが?」
「なんていうのかな……生と死の間には、明確に壁があって。きっと優佳里にだって、本当のところは、理解してもらえない。だから紗姫も誰にも言えないこととか、きっとあったんじゃないかなって。……今ならたぶん、私、わかるよ?」
だから、言ってほしい。その私の言葉に、少し驚いたように紗姫は顔を上げ。そしてまた黙ったまま、しばらく何かを考えこんだ。
その後結構な時間が経ち、出たのはぽつりと一言だけ。
「……ま、それをわかってくれたら、いい」
「まだ何も聞いてないんですけど」
「言ってないからね。それより、作戦会議の続きでしょ」
……いい、のかなぁ……? まあとにかく。作戦会議に戻るか。紗姫もさっきよりは復活したみたいだし。
「ってことで、まずは最後のこれを入れるよ。もうこれ以上変わりようがないだろうし」
「……うーん……」
あれ、名誉顧問がさっそく唸ってる。この段階で渋られるとこっちも困るんだけど。だけど全面反対という訳でもなさそうだったので、もうそのまま私はDVDを胸に入れた。無事ずぶずぶとDVDは私の胸に格納された。よし、これで完全版になったはず。……なったからどうなんだ、と言われたら困るけど。これを入れないと、そもそも条件が整わない。
「で、紗姫には1つお願いがあります。さっきの話について」
「……いったい何?」
あ、なんか知らないけどめちゃくちゃ警戒されてる。そんなに無茶なことを頼んだ覚えはないのに。まあでもこれから頼むのは無茶以外の何物でもないから、警戒は正しいか。
「やっぱり作戦一部変更。部長には紗姫が当たってほしいの」
「えー……いや、ちょっと……紗姫ちゃんが協力した方が莉瑚の成功率も上がるじゃん……さっきので行こうよ」
そりゃあ紗姫にとっちゃ気の進まない話だろうけど。でも、お願い。だって、部長を抑えないときっと詰めの段階で邪魔が入る。間違いなくそんな気がする。それは避けなければいけなかった。
「だってしょうがないじゃない。どう考えてもあと1人、手が足りないんだから。そりゃあ……部長のことを知っててなおかつ抑えられる力がある、そんな人がいたらいいけど。どう考えてもいないでしょ」
それに対して何か言いかけて、紗姫が不意に動きを止め、口をそのままあんぐりと開ける。そして私の後ろを見て、目をまん丸にした。……え、なになに? 私もつられて振り向く。
……すると、そこには。
もこもこのニットにスカート。顔の前に布が垂れ下がってる、どこからどう見ても怪しい奴がいた。
つい
でもあんなの入れたら絶対体に悪いよね
残り1話+エピローグで終わりです。たぶん。
 




