胸は痛いし、神はいない
寝付けないままベッドでごろんごろんと寝返りを繰り返していると、いつの間にか朝になっていた。
……浅い眠りの中で色々な夢を見た気がする。ただ、途切れ途切れに思い出すのは、どれも悪夢だったような……。……枕が変わったら寝れないとは聞くけど、そんなレベルじゃなかったぞ。……私、あと1週間もここで寝るのか……。ちょっぴり寝るのが憂鬱になりそう……。
……いけない。このままじっとしていると、後ろ向きなことばかり考えてしまう。……えーっと、部長が言ってたっけ。この病院には外国人の女の子の幽霊が出るとかなんとか。気を紛らわせるためにもそれを調べに行こうかな。……気晴らしに幽霊の調査をしに行くあたり、私もオカ研に染まってきたのかもしれない。
「……女の子の幽霊? そうなの! ベッドの下から小さな腕が出てきて、私の足首をものすごい力で掴んだの!! ショック過ぎて、その日は眠れなかったわよっ!!」
運よく、例の幽霊の被害者だという、やや年配の看護師さんから事情聴取をすることができた。ふむふむ、腕が掴んでくるとな。……ん?
それなんか最近見たような。見たっていうか掴まれたっていうか。すごい力ってところも共通するし。……しかしこの人、次の日は眠れたんだ。その精神力を私にもどうか分けてもらえないだろうか。きっとこの看護師さんなら、胸に変なDVDが入っていても安眠できるのだろう。羨ましい。……あ、いけない。調査調査。
「その腕って黒ずんでたりしませんでした?」
「うーん、……もう消灯時間だったからはっきりとは分からないけど。でも、白い腕だったと思うわぁ」
ふむ、あの黒い腕はやはりあのトンネル限定の特産品のようなもので、他の場所に出張してはこないらしい。まずは1つ、朗報と言えるだろう。しかし、同じようなのが他にもいるなんて、この街は本当にどうなっているんだ。……あれ?
「でもよく腕だけで日本人じゃないってわかりましたね」
「それが、その後も深夜に廊下を徘徊してる金髪の女の子が目撃されてるんだけど! 入院患者にはそんな子いなかったのよ! これってもう100%幽霊じゃない」
確かに、それが幽霊でも幽霊じゃなくてもどっちでも怖い。幽霊じゃなければ、ベッドの下から手を伸ばして看護婦さんの足首を掴む変質者がこの病院には住み込んでいることになってしまうもんね。
「どんな子だったんですか? ほら、たとえば首がなかったとか、血みどろだったとか」
「それが、中学生くらいの、普通の人間みたいだったんですって。でもその方がよけい怖くない?」
「まあ分かるような気はします」
「でもね……」
どこか残念そうに、看護婦さんは呟いた。……でも……?
「その幽霊が最後に出てから、もう半年くらい前になるのよねえ……」
「あれ? 今は出ないんですか?」
「ええ。いっぺん会ってみたかったわぁ」
「……どうしてですか?」
ちょっと意外な感想だ。だって幽霊に会いたいなんて、なかなかいないはず。きょうび怪奇スポットに嬉々として出かけるのは、せいぜい我々オカルト研究部かB級ホラー映画の登場人物くらいだろう。ちなみに後者はだいたい死ぬ。……いや待て。確か、最近そういう発言を聞いたような……。あれ誰だっけ。死んだ人に会いたい、みたいなことを言ってた人がいた気がする。
考え事をする私を置いて、看護師さんはだんだんとヒートアップしていった。
「だってその幽霊、あり得ないくらいめちゃくちゃ可愛かったらしいのよ。そんなの気になるじゃない! 私は足を掴まれたから顔を見てないのにいっ!!」
……そういうもの……? 私は顔を見てないにもかかわらず二度とあの廃トンネルには行きたくないんだけど、これが価値観の違いというやつだろうか。しかしどうやら、この病院の幽霊は既に絶滅してしまった後らしい。一歩遅かったみたいだ。
目撃者の看護師さんと別れた私は、病院の廊下を早足で歩く。すると、ふとどこからか、声が聞こえてきた。耳を澄ませてみる。「……て」「ねえ気づいて」「はやくここから出して」「ここにいるよ」。どれだけ早く歩いても、囁くようなかすかなその声は、ずっと私の真後ろから聞こえてきた。どこかで聞いた声のような気もする。
……どうしても、振り向く勇気は出なかった。振り向いて、誰もいないのを確認するのが、なぜか怖かった。
――この病院の幽霊は、本当に、もう絶滅したのだろうか。
しかし幽霊の女の子の手がかりはさっそく尽きてしまったのも事実。私は病棟のロビー横にある喫茶スペースでぐでーっとくつろぎながら、ひとまず次の作戦を練った。といっても……DVDは副部長頼みだし……。私はこれから何をすればいいんだろう。
そしてなんとなくナースステーションを眺めていると、ふと、見たことがある人がそこで何事かを尋ねているのが見えた。……眼鏡をかけた、黒髪のおさげの大人しそうな子。あれ。えーっと……どこで見たんだっけ……?
……そうだ。確か、神社で私じゃない少女に助けられた、って言ってた……。ここにお見舞いだろうか。そう思ったけど、私はささっと死角に移動する。だって気まずいし。私はああいう友人未満の人と街中で会ってもにこやかにお喋りできないタイプの人間なのである。
でも私が死角からなんとなく眺めていると、彼女の尋ね人はこの階にいるらしく、スタスタと向こうの方へ歩いて行った。
私はいちおう、彼女がどの病室に入ったかを確認するため、再び場所を移動する。いったん隠れたなら、最後まで見つからないことが必要なのだ。さて、ちらり。
すると、彼女は廊下を進み、私の病室に入っていった。……ま、まあ。4人定員の大部屋だからそういうこともあるよね。うん。彼女のお見舞い相手がたまたま私と同時期に同室だった……っていう……。
10分ほど経って、彼女は病室から出てきた。無表情で。私はさっきより真剣に壁の陰に隠れ、息をひそめた。……確か、隣のベッドの井上さんは今の時間は検査で別室送り、お向かいの中川さんは日中はこっそりパチンコに出ているはず。斜め向かいは空きベッドだから……。
……どうやら彼女のお見舞い相手は私? ここでの問題は、私たちは1度会っただけなのでそういう関係性ではないということだろうか。そこに目をつぶりさえすれば何も問題はないのだけれど……。彼女は今日も、かつて会った時と同じ、大きく重そうなかばんを下げていた。あの中にはいったい……何が入っているんだろう。お見舞いのフルーツ盛り合わせとかではたぶんない気がした。
彼女が去っていってから、私は注意深く自分の病室に入る。そこにはやはり、誰もいない。私はごろんとベッドに寝ころんだ。……誰もいないこの病室で、あの人はいったい、10分も何を……? うーん、わからない。誰もいないことがショック過ぎて10分間呆然としてたとか? ……多分違うな。
その時。廊下の方からコツコツとかすかな足音が聞こえた。
「いたっ……ごふっ」
突然の胸の痛みとともに、私の口から血があふれた。……ここにいたらいけない。誰か、まずい人間が来る。なぜか胸の内で、そんな予感がした。でも、この病室で隠れるところなんて……。
不意に、さっきの看護師さんの言葉が私の耳に蘇った。
――そうだ、ベッドの下。
ささっとベッドの下に潜り込むと、そこは幸いにも、綺麗に掃除されていた。奥の方で小さくなり、私は息をひそめる。……何? いったい、誰が来るっていうの……?
ベッドの下で狭まる視界の中に、足音とともに現れたのは、女物の靴を履いた足だった。その足は、私のベッドの前でぴたりと止まる。私は思わず縮こまった。
「……あら。戻ってきたと聞いていたのに。……まったく、運のいい」
聞こえてきたのは、さっき帰ったはずのおさげの少女の声だった。
「でももう少し。待ち遠しいわ。早く。早く」
ベッドの下に隠れているので私からは見えないけれど、何か私のベッドを触っているのか、ごそごそと布に触れる音がする。……この状態で1つだけ言わせてもらうなら、絶対私は運が良くないと思う。
――でも、そうだ。思い出した。死んだ人に会いたいって言ってたのは……。
しばらくして、彼女は無事去っていった。……たぶん。
私はそれから30分くらいして、そろそろとベッドの下から顔を出す。……行ったかな? しかし、やはりあの人の目当ては私だったらしい。……以前会った時に何か粗相をしてしまっただろうか。でもそんな感じでもなかったし。
……けど。「待ち遠しい」って? 何が? 彼女が望むのは、「死んだ人に会うこと」だと言っていた。それって私と何の関係もないと思う。でも明らかに何かありそうだった。
考え込んでいると、ふと視線を感じた。そちらの方へ眼を向けると、病室の入り口から、目をまん丸くして私の方を見つめる看護師さんの姿があった。あ、さっきの人だ。……いけない。ベッドの下に入り込んでいるところを見られてしまった。けど、なんでそんなに……。
看護師さんの視線がなんだか私の胸元に行ってる気がして、視線を下げる。すると私の入院着はさっきの吐血でけっこう赤く染まっていた。おおう。確かに、ベッドの下に幽霊がいると噂の病院でしていい恰好ではなかった気がする。
「あの……」
「出たーーーーっ!!」
走り去る看護師さんの悲鳴は、なぜかちょっと嬉しそうだった。
その後、戻ってきた看護師さんに謝り、謝られ。私は無事、再びベッドの上に戻った。なお、場所は同室の空いていたベッドに変えてもらった。今まで私がいたベッドは、なんだかさっき呪われた気がするし。……なんだろう。一番怖いのは実は人間だった、っていうパターンなんだろうか。色々分からないことが多い。もう1度会って確認するのが確実だろうけど、それは死亡フラグのような気も……。
そして結局、それから数日経っても、おさげの彼女は再度訪問してくることはなかった。……来た瞬間に自分の部屋まで飛んで逃げようと思っていたので、ちょっと拍子抜け。ただ来ないに越したことはない。ここは永遠に来ないことを天に祈ろう。
「や、具合はどう? ……どうしたの? 黙祷?」
「あ、副部長」
私が祈っていると、副部長が今日もお見舞いに来てくれた。なんか毎日お見舞いに来てくれる副部長。親切。ちなみに部長は1度も来ていない。その方がらしい気もする。それと森河くんも毎日来てくれているのだけど、あれは嫌いな副部長へ張り合っているだけなのではないかと私は睨んでいる。
「寝れてる? あんまり夜寝れてないみたいって、看護師さんに聞いたんだけど」
「ええ。あれ、でもそんなこといつ聞いたんですか?」
「……ナースステーションで面会の受付をしてる時に。他にもいろいろ聞いたよ」
この病院の看護師さんは受付の時にお見舞い客にいったい何を話してるんだ……。……その他のいろいろも気になるけど、副部長の沈んだ顔を見る限りなんだかいい話でなさそうなので聞かないでおこう。
……ああ、でも自宅のベッドがやっぱり恋しい。たまに飛んで帰って昼寝をしているのだけど、やっぱり夜に寝たいしね。……あんまり夜寝れていないのはそのせいかもしれない。それに、あのおさげの彼女がいつ襲来してくるかも、っていう不安もやっぱり大きいのでは。……まあそれも退院するまで。さすがに私の家までは彼女も来ないだろう。ふふふ、さらば。せいぜい前のように誰もいないベッドに一生懸命お見舞いしてくれたまえ。
「いずれにしても、退院までもう少しですしね」
「え?」
「……え?」
何ですかその反応。だって1週間の検査入院だからもう明後日には……。
すると、副部長はなんだか真剣な顔で私の方に向き直った。私もつられて真面目な顔になる。
「俺から伝えていいのかわからないけど。……吐血が続いてるから、退院はまだ、なんだってさ。でもどうか、無理しないでほしい。何かあってもここなら安心だと思うし……って大丈夫!?」
べしゃっと布団に突っ伏した私を、副部長はおろおろした感じで見下ろした。……この世に妖怪と幽霊はいるみたいだけど。どうやら私の願いを聞いてくれる神はいない、みたいだった。




