その三 ・ 疫病の精魅、跂踵(きしょう)
前回のあらすじ・生贄にされた少年を衛が助けた
暗闇の中を歩き続けて、ようやく衛が、ふうっと息をついて足を止めたのは、もう空の一部が薄白くなってきてのことだった。 山を、ひとつ、ふたつ越えたのかも知れない。
「えい?
あの……」
精魂尽き果てた、といった感じで、大木の根元に座り込んだ衛は、いつの間にか背負っていたいつもの籠から、竹筒の水筒を出して、少年に渡してくれた。
「説明してたとはいえ、怖かったでしょう?
ごめんね、私も、まさかあんなギリギリになるとは思ってなかった」
水をひとくち含んだ少年は、首をかしげる。
「説明?」
「最後に会ったとき、言ったでしょ?
そろそろ旅立とうと思ってる。
良かったら一緒に来ない?
って」
目を真ん丸にして驚いている少年に、衛が愕然とした顔をした。
「え?
ちょっと待って。
ひょっとして、聞いてなかった?
私、ちゃんと言ったわよ。
ご両親に、君を譲ってもらえるかどうか交渉して、ダメだったら、ちょっと乱暴な手段をとるかもしれない、って。
決死の覚悟で誘って、頷いてくれたから、必死でいろいろ画策したのに……
勘違い?
私の早合点?
両想いだと思って空回り?
……うっわ恥ずかし」
顔を真っ赤にして頭を抱える衛の指先を、少年の冷たいてのひらが包み込んだ。
「よく、わからないけど。
えいが来てくれて、うれしかった。
たびに行っちゃう、ってきいて、かなしくて。
いっしょに行けるなら、うれしい」
真っ赤な顔のまま、衛は顔をあげた。
恥ずかしそうで、うれしそうで。
昨日の夜のことは物凄く怖かったけれど、同時に物凄く幸せたったことにも、少年は気づいた。
二人で歩きながら、衛はいろいろなことを話してくれた。
「どうして、精魅の名前をしっていたの?」
「何年か前にね、薬をわけてあげたおじいさんに聞いたのよ。
これから西域に行くのなら、気を付けるべき精魅は三つ。
一つ、人食いの鳥、羅羅。
一つ、人食いの四本角の羊、土螻。
一つ、人食いの四本角の牛、傲咽。
出会わないのが一番だけれど、もし出くわしたなら、名を呼べば精魅は弱くなる。
そのすきに逃げなさい、ってね」
「ぼくをください、って、とうさんに言ったの?」
「そうよ」
「とうさん、なんて言った?」
「私が薬師だって名乗ったからか、勘違いしたみたい。
薬になるのか、って聞かれたわ。
薬になるのだったら、渡すのは、嫌だったみたい」
「それで、どうしたの?」
「何か、利用できる情報はないかと思って、街でいろいろな話を集めたわ。
その中に、三危の山に住む、人食いの精魅の話を聞いたの。
これだ、と思ったわ。
占い師に化けて、噂をばらまいたわ。
『生まれながらに白い人間は、精魅にとって毒となる』ってね。
あとは、勝手に動いていった。
生贄にされるだろう君を、横からかっさらって逃げようと思って、身代わりの狒狒を捕まえて。
櫃の中に残った、君の衣と白い毛、血だまりを見たら、誰だって君が精魅に食べられた、って考えるだろうから」
少し考えてから、少年はおずおずと切り出した。
「さいごに、何かたおれた音がしたよね」
衛の籠から、ぼすっと狸が飛び出した。
そしてそのまま衛の肩に飛び乗ると、ふんわりと首巻きのように衛の首筋に収まった。
「君、毛玉のこと、なんだと思ってる?」
「え?」
「狸?犬?
これはね、天狗。
三危の山より東に百里ほどいった、陰山に住む精魅。
その昔、天にある星が落ちて狸に当たって変じたと言われている。
なんでか気が合ってね、ついてきてくれたの。
そして、天狗の唾液には、精魅に効く毒がある」
少年は、まじっと衛の首元のもふもふを見つめた。
どう見ても、首の周りが白い狸にしか見えない。
「とは言っても、天狗の毒は、それほど強いものじゃない。
蛇にはよく効くみたいだけど、他の精魅相手なら、麻痺させる程度。
でもね。
それも、薬師の私と組めば……
人食いの精魅さえ殺す、毒になる」
「じゃあ……」
「殺そうと、思ったのよ。
狒狒の体に、毒を仕込んで。
そうしたら君は、命と引き換えに怪物を倒した英雄ってことになるし。
でも。
ふと気づいたの。
それをしちゃったら……
次に、君みたいな子どもが生まれたとき、必ずその子は、精魅を殺す、エサにされる。
その子で失敗したとしても、多分、その次の子も、
君という成功例がある限り。
君を救うために、まだ生まれてもいないその子たちを危険にさらすのは、違うと思うのよね。
だから、狒狒に仕込んだのは、私たちを追ってこられないくらいの、麻痺薬」
「そっか」
やさしげに微笑む少年に満足しながらも、衛は心の中でつぶやいた。
もっとも、朝まで麻痺していた傲咽と、朝になって少年の安否を確かめに来た街人たちが鉢合わせしたとしたら……どうなるか、分からないけれど。
少年を生贄に生き残ろうとした街人たちを、心配する気は起きなかった。
「と、いうことは。
少年を生贄にしたけれど、精魅は健在、街の憂いは払われていない。
生贄を発案した占い師……つまり私は、子どもを無駄に殺させた大ウソつき。
てなわけで、とっとと逃げるわよ」
楽しそうに笑って手をひき走り出す衛に、少年もまた幸せそうに笑い返した。
それから、四年。
少年はだいぶ話せる言葉も多くなり、少しは身長ものび、薬の知識も豊富になっていた。
沢に入って魚をとることもできるし、多少の日差しなら、布をかぶって出歩けるようになっていた。
衛と少年は、いまだ旅を続けていた。
追手はかからなかった。
西域のあの街が、あれからどうなったのか少年は知らない。
「衛、衛!
見て見て、いっぱいとれたよ!」
薄曇りの日。
森の中の沢に仕込んでいた罠に、イワナがたくさんかかっていた。
褌ひとつになってそれをつかまえた無が、濡れた体もそのままに、火を熾していた衛のもとに走りよった。
満面の笑顔に、つられて衛も笑いかけ……
「もう、無ったら。
またそんな格好して。
眼福だけど、風邪ひいたらどうするの」
そう言いながら、籠の中から取り出した布で、無の体をわしわしと拭きあげる。
「ダイジョブだよ。
もうだいぶ強くなったんだから」
それでも座った衛に抱えられるようにしておとなしく吹かれている少年に、衛は口をとがらせて反撃する。
「こーんな無防備なかっこしといて、どこが強くなったのかしらね。
無は思わず襲っちゃいたくなるくらい綺麗なんだから、どっかのきれーなオネーサンにさらわれちゃわないか、心配」
「さらわれないよ。
衛だからだよ。
ぼくよりも、衛のほうが綺麗だ」
無がそう言うたびに、衛は少しだけ悲しそうな顔をする。
「無はいつもそう言ってくれるけど。
それは、無が他の女の人を知らないからだよ。
私は、決して綺麗じゃないし、無は、綺麗。
私は大人で……無は、まだ子ども。
そのうちきっと無にも現れるよ。
私よりも綺麗で、無にお似合いの人が」
それまでされるがままに髪を拭かれていた無が、ふいに振り返った。
思いがけない至近距離に、衛が小さくのけぞる。
「ぼくは衛がいいの!
ね、衛、好きだよ。
衛以外いらない。
ぼくの、お嫁さんになって」
一年後。
無とともに故郷に帰ったとき、衛のお腹の中には、女の赤ん坊が宿っていた。
衛と、産まれた娃と一緒に暮らした日々は、信じられないくらい幸せだった。
十も歳の差のある、衛とぼくに、最初、老太太は呆れたようだったけれど、娃が産まれてからは、何も言わず嬉しそうだった。
ただひとつ心配があるとすれば、娃も、ぼくと同じ、白い髪に赤い瞳で生まれて来たことだった。
体が弱く、陽に弱い。
それでも、ぼくはここまで大きくなったし、娃にも無事に成長してほしい。
娃を寝かした籠の周りには、よく毛玉が一緒に眠っていた。
なかなか娃の側を離れられない衛に代わって、老太太に教わりつつ、ぼくが薬草畑の世話をしたり、動物の世話をしたり、山に薬の材料を採りに行くことが多くなった。
働くのは楽しい。
帰ってきて、衛や娃が笑顔で待っていてくれるのも、老太太に、仕事が雑だと怒鳴りとばされるのも。
想像することも出来なかった幸せが、そこにはあった。
けれど。
娃が二歳になったとき。
山に入ったぼくは、一羽の鳥を見た。
見て、しまった。
梟の体。
一本足。
猪の尾。
見られた瞬間、背筋がぞくぞくっと寒くなって。
禍々しい、そのまなざし。
疫病をもたらす、精魅の鳥。
ようやく村に帰り着いたとき、悪寒は耐え難いほどになり、ぼくはひどく発熱していた。
あまりの顔色の悪さに驚いた衛が、慌てて布団をのべてくれた。
今になっても、まだ思う。
なぜあの時、ぼくは村に帰ってしまったのか。
あのまま、山の中で死んでいれば良かったのに。
そうすれば、きっと、全ては変わっていた。
ああは、ならなかった。
たとえ、そのときのぼくが、あの鳥を疫病を運ぶ精魅だと、知らなかったとしても。
ぼくの熱は何日経ってもさがらず……
悪寒と、発疹と。
衛が、倒れた。
ぼくとまったく同じ症状だった。
うつった。
その絶望的な事実に、慌てて老太太が娃を隔離したけれど……
時すでに遅く、その次の日、娃も発熱した、と、老太太が娃を衛のところへ連れ戻した。
同じ病なら、親と離しておくのは気の毒だからと。
不思議と、老太太は倒れなかったけれど、ひょっとしたら、本当は熱があるのに、我慢していたのではないだろうか。
娃も発熱してから数日。
症状が出てから、ぼくも衛も、もちろん娃も、村の人と接触したこともないというのに、村の中にも、ぽつぽつと病人が出始めた。
老太太が呼ばれていく。
けれど、老太太はすでに、ぼくにも衛にも娃にも、そのもてる知識を総動員して、あらゆる薬を処方してくれていた。
それでも誰も治らない。
村のひとたちも、治るとは思えなかった。
だんだんと、村に疫病が蔓延していく。
思えば。
『最初のひとり』がぼくだと分からないように、老太太は、無理をして村の人たちの治療にあたってくれていたのだと思う。
疫病を村にもたらした者は、たとえ村人全員が完治したとしても、迫害される。
本当に、なぜぼくは帰ってきてしまったのか。
村の人たちは、衛と一緒に帰って来たぼくを、受け入れてくれた。
白髪赤目で生まれて来た娃を、可愛がってくれた。
毛色が違うからと、避けることもなく、普通に接してくれた。
それは老太太の威光が少なからずあったのだろうけれど、ぼくも衛も、村の人たちにはとても感謝していた。
それなのに。
大切な衛も、娃も、村の人たちまで巻き込んで。
ぼくはなぜ、まだ生きているんだろう。
十数日が経ち。
衛の熱が、さがった。
長く続いた高熱に、すっかりやつれてはいたけれど。
ぼくは神様に感謝した。
ぼくの症状はさっぱり良くなっていないし、村人のだれかが治った、という話も聞かなかったけれど。
ぼくの大切な衛が、最初に治ったことに、ぼくは神様に感謝した。
そのころ、まだ娃は衛の乳も飲んでいた。
高熱が出て、衛の乳が出なくなり、しばらく飲めていなかったけれど。
娃も熱が出て、他の食べ物、キビ粥やアワ粥は嫌がり、ろくに出ない衛のおっぱいに吸い付いてばかりいた。
ようやく出るようになったらしい衛のおっぱいに、娃が嬉しそうに吸い付いている。
まだ熱でほてった赤い顔だったけれど、まだ小さい娃の体は、今回の疫病ですっかり痩せ細ってしまっていたから、ぼくはそのことに安堵した。
そして、おっぱいが飲めるようになってじきに、娃の熱もさがった。
やっぱり、他の村の人たちは、だれも治っていなくて。
なんて自分勝手なんだろうとは思ったけれど。
ぼくは、衛と娃とが治ったことに、本当に本当に安堵していた。
次の日。
目覚めると、枕元に衛が座っていた。
優しい、優しい笑顔を浮かべて。
一服の薬を差し出された。
「新しい薬を作ってみたの。
飲んでみて」
もちろん、ぼくはそれを飲んだ。
しょっぱいような、甘いような、不思議な味だった。
飲んで、二日して、ぼくは回復した。
「すごいね、衛」
衛は、ぼくが治って良かった、と笑った。
今まで見たどの笑顔より、優しくて綺麗な笑顔だった。
ぼくは、知らなかった。
それが、衛を殺すことになるなんて。
ぼくは、知らなかった。
それが、衛の、肉だったなんて。