その二 ・ 三危の山の傲咽(ごうえつ)
前話のあらすじ・文命が宿の女主人をロバにした
話し終えると、目の前の老婆もまた頭を抱えていた。
床に敷いた麻布の上に座り込み、杖を抱えて小さく縮こまった体は、まるでしわでできているようだ。しわに埋もれて、目も口も元の形が分からない。
薄くなった頭髪はやはり白かったが、無や娃とは違い黄みがかっていて、若かったころは黒かったのだろうと思われた。肌も黄みがかった日に焼けた肌だ。
薬師の老太太。
この村の長老格で、近隣の村々では、皆、この老太太に何某かの世話になった経験をもつ。
「なかなか信じがたい話だとは思うが……
すべて、数日前に俺が体験した事実なんだ」
文命がこの話をしたのは、宿の隣村の住人と村長、合わせて五人ほどだったが、誰も話の全てを信じてはくれなかった。
まぁ、自分たちも譲ってもらったことのあるロバが、元は人間、それも知人だったかもしれない、などと言われては、信じるわけにはいかないのだろう。
村人たちが理解したのは、近くの宿の女主人がいなくなったということ、そして、その女主人の飼っていたロバの預かり手を、文命が探している、ということだけだった。
「いや、信じるよ。信じるともさね。
あたしゃあこの身に、もっと信じられないようなことが降りかかったことがあるからね。
いや、まだ最中とも言うか……」
老太太の最後のセリフは、そのそのしなびた皮膚に阻まれて、文命のもとまで届いてはこなかった。
「それで、仕方なしに、宿の女主人が師事していたというお人を探すことにしたんだ。
けれど、二十頭ものロバを連れて歩くわけにもいかないし。
俺が宿に留まって、ロバの世話をしていたんじゃあ、事態はいつまで経ってもこのまんまだ。
できればどこかにロバ達を預けて、その仙人だか道士だかを見つけに行きたいと、隣村の村長に相談したところ、ここなら預かってくれるんじゃあないか、そう聞いてね」
文命から、その村長の名を聞いた老太太は忌々し気にぼそっとつぶやいた。
「まったく、あの小僧っ子め。
やっかいなもんを押し付けてくれたよ」
「やっかい……やっぱり、やっかいなんだな。
元人間のロバなんて、気持ちのいいもんじゃないだろう。
けど、関わり合いになった以上、俺はあの人たちを助けたい。
すまないが、できるだけの礼はする。
引き受けてもらえないだろうか」
深々と頭をさげる文命に、老太太はふーーっと深いため息をついた。
「ロバのこっちゃないよ、お前様のことさね。
この年になるとね、薬だけじゃない、人相も多少見られるようになってね。
お前様は、そう、なんというか、大した相の持ち主さ。
うちの愚息とそっくりだ」
そう言ってチラリと目線をやる先には、瓜を切り分ける娃の目の前で、待ちかねたように興奮してよだれを垂らしている無の姿があった。
ぶんぶん振られている幻のしっぽが見えるようだ。
「ちょっと待つです、哥哥!
お客様が先なのです!」
「息子さん?
お孫さんじゃあ?
あの『神明』のことだよな?」
老太太はこれみよがしに首を振ると、先ほどより深いため息を吐いた。
「まぁたやらかしたのかい、あの馬鹿は。
んー、なんと言うかね。
話せば長くなるんだが。
さっき言った、『信じられないようなこと』の話さ。
こんなこと、見ず知らずのお人に話すようなこっちゃないが……
うん、ロバの件、分かったよ。
うちで預かってやろうじゃないか。
その代わりといっちゃあなんだが」
老太太は、シワの中に埋まり切った黄色い目をすがめるようにして目の前の男を見つめた。
小さな老婆からすれば何倍もある偉丈夫。
少し片足を引きずるようにしているのは、古傷か何かか原因だろうか。
旅人からすれば命綱だろうに、頼みごとをする老太太に敬意を表して、剣は外し戸口に立てかけてある。
年のころは三十間際くらいか。
しっかりとした顔立ちに、黒々とした髪を後ろで束ね、麻のひもで結わえている。
無骨、というか一本気というか。
少なくとも、老太太はこの男に好感を持った。
「どうか、うちの愚息と仲良くしてやっちゃあくれないか。
あんなんだけどね、あたしも娃も、あいつには救われたんだ。
なんとはなし、お前様とは似た相をしているしねぇ」
文命が頷くのも待たずに、老太太はとつとつと話しだした。
伝法な口調とは裏腹に、無を見やるシワの奥のまなざしは優しげだった。
「あたしには、遅くにできた娘がいてねぇ。
父親?
そんなものはいやしないよ。
少なくとも、あの子が物心つく頃にゃあ、いなかった。
娘は、まったく誰に似たんだか、いや、あたしだろうけどね、薬狂いの、まぁ、なんていうか、腕のいい薬師だったよ。
名前は、衛。
それが、二十歳を前に、ふいっと出て行っちまった。
縁組なんて無理強いした覚えはなかったんだが、同じ年頃の娘っ子たちが、猫も杓子も子持ちになっていくのを見てるのは、肩身が狭かったのかねぇ。
新しい薬を探してくる、そんなのを一こと言い残してね。
なんの音沙汰もなく、十年。
そろそろどこかでシャレコウベにでもなっているか、それとも他所で所帯でも持っているか……そんなことを考えていた頃、ふらっと娘が帰って来たんだよ。
白い髪に赤い目の、男の子を連れて」
無は、ここよりも遥か西域の生まれだった。
西域に住む人々は、ここらに住む人たちとは顔つきも違う。
黒い髪にはちみつ色の肌、彫りの深い、いわば「濃い」顔をした人が多かった。
無が産まれた家は、いわゆるいい家だったのだと思う。
両親はお屋敷に住んでいたし、使用人も何人もいた。
飢えることもなかった。
けれど、そこで無は、『ないもの』として扱われていた。
物心ついた頃より、両親には疎まれていた。
話しかけられた記憶も、ほとんどない。
武を尊ぶ家の長男として生まれながら、白い髪に赤い目、血管の透ける白い肌。生まれながらに虚弱体質。
すぐに病気になり、太陽の光に当たっただけで肌は赤く焼けただれる。
現代には、『アルビノ』と呼ばれる先天性の色素欠陥だが、当時の人の目には、神の子として崇められるか、異端として虐げられるか……その両極端だった。
両親に似ている箇所は微塵もなく、当初不貞を疑われた母は、無が視界に入るだけで恐慌状態になった。
名前もない。
ただ、その異常な見た目から、殺したら祟られるかも知れない。
その懸念だけのために食事を与えられているだけの存在だった。
こんな病弱な子ども、放っておいてもじきに死ぬだろうと誰もが思ったが、幸か不幸か、無は、他の同い年の子どもから比べれれば小柄であるものの、少年と呼べる歳まで成長することが出来た。
そう、無。
いつの間にか使用人たちに呼ばれるようになった。
無い、という意味の呼び名。
少年になった無には、仕事が出来た。
屋敷の裏の、昼なお暗い山に入り、薬の材料となる薬草や、キノコを探すこと。
もちろん、陽の光に当たるだけで火傷する少年には、できる仕事はそれだけしかなかったのだけれど……
野生動物が跋扈し、当たり前のように精魅が現れる。
そんな山の中に、あえてまだ幼さの残る少年を行かせたのは、あわよくば死んでほしい、という未必の殺意の現れだったのかもしれない。
たくさんの薬草を持って帰っても、何一つ持って帰らなくても、使用人たちの少年に対する反応は変わらなかった。
怒られることも、褒められることもない。
なぜなら、そこには『なにもない』のだから。
ただ、飢えることのないだけの食事のみが与えられる。
少年の持ち帰った薬草が、本当に活用されているのかすら疑問だった。
そんな生活を繰り返して、どれほど経ったか。
少年は、深い森の中で、彼の一生を変えるものに出会った。
それは、女の人だった。
痩せて、顔色の悪い。
でも、どこかたくましい。
黄色い肌に、黒い髪。
白い衣に赤い裳。
屋敷の人間とは違う顔つき。
背に籠を背負って、真剣に木の上を見つめていた。
屋敷の者以外で、少年が初めて目にした人間だった。
こんな、山の中に?
精魅だろうか?
少年に気づくこともなく、女の人は意を決したようにひとつ頷くと、幹に足をかけて登り始めた。
息をつめて見守る少年をしり目に、するするっと木の半ばほどまで登っていく。
そうしてそこから、枝の先にぶらさがっていた緑色のつる草の固まりに手をのばし……
『みしっ』
嫌な音がした。
確かに、あの木はもろいから、登るのはどうかと思っていた。
でも、根本から折れるなんて。
飛び出して行って、あの人を受け止めたほうがいいんだろうか?
だけど、多分、自分よりもあの女の人のほうが重そうで。
虚弱体質の自分は、ケガをしたら、また治るまでに随分時間がかかってしまうだろう。
せっかく外に出してもらえるようになったのに、そうしたらまた、屋敷の自室で壁を見つめるばかりの毎日に戻ってしまう。
ひょっとして死んだら。
父さまや母さまは、帰ってこない自分に、喜ぶのだろうか。
自分がどうにかしなかったら。
あの女の人のほうこそ死んでしまうかも知れない。
そんなとりとめないことを考えて、一歩も踏み出せずにいた少年の目の前に、どさっと女の人が落ちてきた。
慣れているのか、うまいことバランスをとって、足から着地、その後、尻もちをついたようだ。
慣れいてる?
慣れているって、落ちるのに?
「あーあ、籠は置いて登れば良かった」
もしかして言葉が通じないかも知れないとも思っていたけれど、女の人がつぶやいたのは、少年にも聞きなれた言語だった。
そこに、葉っぱにまみれた大きな狸(?)が走り寄ってきた。
首の周りの毛が白い。
もふもふとしていて……どうやら、女の人が背負っていた籠に、葉っぱと一緒に入っていたらしい。
女の人が落ちるときに、とっさに籠から飛び出したのたろう。
非難しているような狸の目つきに、女の人は小さく、ごめんごめん、と謝った。
それから女の人は、眉根を寄せると、落ちるときに籠から散らばった草や葉っぱ、木の皮、木の実、キノコなんかを集め始めた。
「あれ?
これ……」
籠から散らばったものの多くは、少年には見たこともないものだったけれど、その中のキノコのひとつに見覚えがあった。
少年が、日ごろから山で集めるようにと言われている、薬になる固いキノコだ。
「あの、これ……」
おそるおそる、少年は女の人に声をかけ、足元に落ちていたキノコを差し出した。
女の人が、びっくりしたように少年を見る。
「あら‥…
ひょっとして、私が木から落ちるとこ、見てた?」
少年がぎこちなく頷くと、女の人の口元がゆがんだ。
笑み、というものに近い気がした。
「あちゃあ。
そっかぁ、みっともないとこ見せちゃったね。
私は衛。
君は?」
少年はびっくりした。
名を教えてもらったのも、名を聞かれたのも、初めてだった。
「無」
「不思議な名前だね。
でも、うん、何となく分かるわ。
似合うよ。
厳しくて、綺麗な名前」
「似合う?」
少年の唇は震えていた。
『なにもない』そんな意味の名前が?
やはり、自分にはふさわしいのか。
「うん、似合うよ。
無なんて、大きくて、厳しくて、綺麗な名前。
君でもなくちゃ、似合わない。
綺麗だもの。
君もとっても」
そう言って微笑んだ、衛のほうが綺麗だと、少年は思った。
綺麗?
親にも気持ち悪いと言われた、このぼくが?
びくっ、と少年の肩が震えた。
衛の、やせて荒れた手が、少年の赤い目を隠すように伸ばした前髪に触れ、耳にかけた。
親にさえ、触れられたことがないのに。
「ぐ、うぐっ……」
突然、喉の奥から嗚咽が込み上げた。
今まで、触れられたいと、思ったこともなかった。
見て欲しいと、名を呼んでほしいと思ったことも。
だって。
なにもない、いないように扱われるのは、自分にとって当たり前だったから。
使用人小屋の片隅に寝泊まりし。
両親と、弟たちが楽しそうに語らうのを遠くに見たときも。
体中擦り傷だらけになりながら、初めて採って来た薬草を、使用人の一人に無造作に籠の中に放り込まれたときも。
何も感じなかったはずの心が、それは間違いだったのだと叫んでいるようだった。
涙を流し、肩を震わせ。
突然座り込んで泣き出した少年に、衛は驚いていたようだったが……
そのやせた手は、少年の背をいつまでもなで続けてくれたのだった。
しばらくして、。嗚咽が収まってくると、少年はぽつぽつと話し始めた。
少年の話せる言葉は、多くなかった。
それでも、知っている言葉をつなぎ合わせ、何とか、目の前の衛に、気持ちを伝えようと頑張った。
初めて、名前を教えてもらったこと。
触れてもらったこと。
きれいだと言われたこと。
うれしかったこと。
衛が、きれいだと思ったこと。
衛が木から落ちそうになるのを見ていたのに、助けられなかったこと。
それが悲しかったこと。
自分のことを、親は嫌っていること。
本当は、名前なんかなくて、『いないもの』という意味の『無』だということ。
自分は、陽の下を歩けない、ということ。
森には薬草を取りに来たということ。
誰にも話しかけられない、というのが、本当は辛かったかもしれない、ということ。
「そっか……」
それからしばらく話して、少年は、衛がやはりこの山に薬草を取りに来たことを知った。
精魅が出ると噂のこの山に、地元の人間は近寄らない。
ひょっとしたら、その精魅の噂の元さえ、少年であったのかも知れない。
それほど、この西域にあって、少年の容姿は異質だった。
衛は、ここより遥か東に産まれた、薬師なのだと言った。
自分の産まれた地域にはない、珍しい薬を探して、旅をしているのだと言う。
本当は、西王母という女神がおわすという、霊薬の多く育つ神山を目指しているのだけれど、旅の途中、あちこちで薬になる材料を集めては、地元の名士に売り、食料を得ているのだと。
それから何日か、山へ行くたびに、少年は衛と会った。
衛と会って、薬草の話をしたり、まだ少年の知らない薬を教えてもらったり。
鳥の話をしたり、猪に出くわしたときの逃げ方を教えてもらったり。
衛と一緒にいる狸にも触らせてもらった。
動物に触るのは初めてだった。
柔らかくて、あたたかくて、ふかふかで。
動物ってもっと臭いのかと思っていたけれど、毛玉はそんなことなくて。
毛玉。
ちょっとその名前はどうなのかなー、と思ったけれど。
狸は、毛玉という名前だった。
すべてが、少年にとっては、かけがえのない、楽しい時間だった。
けれど、ある日、衛は少年に言う。
そろそろ、旅だとうと思っている、と……
目の前が、真っ暗になったようだった。
旅をしている、と言っていた。
旅の食料と交換するために、薬になる植物を集めているのだ。とも。
それならば、衛がここに長居するはずも、旅立たないはずもなかっのに。
少年は、まったくそのことを考えていなかった。
衛がいなくなったところで、元の生活に戻るだけだ。
……もとの。
戻れるのだろうか。
だれとも話さない、触れられない日々に。
頭が殴られたようにずきずきと痛み、吐き気すらして。
少年は、そのあと、衛が何か話しかけてくれていたというのに、まったく耳に入らず。
ただただ、魂のぬけたような表情でかすかに頷いているばかりだった。
数日後。
少年は、父親に呼ばれた。
しかも、使用人の粗末な服から、上等の衣に着替えさせられて。
産まれて初めて、使用人小屋ではなく、両親と弟の住む本館に来るように言われた。
父親と同じ部屋に入ることさえ、物心ついてからは初めてだった。
「めでたい」
父親は上機嫌だった。
「お前がいてくれて、実に良かった」
にこにこと微笑む父親に、かすかに震える母親。
弟の姿はなかった。
震える母親の指先が、こわごわと少年の肩をつかみ……ぎこちない微笑みが向けられた。
「おめでとう。
あなたに、大役が任されることに、なったのよ」
その日、少年は、山の精魅への生贄に決まった。
灯火が……
少年の乗った輿を囲んで、いくつもの灯火がかかげられていた。
もうすぐ、夜になる。
空の色が茜色からすみれ色へと塗り替えられる頃、木々に光の遮られた森の中には、街よりも一足早く夜が来る。
ここまで、灯火をかかげて少年を運んできた街の人たちは、精魅に生贄をささげるむねの祝詞を読み上げると、足早に帰っていった。
逃げられないようにと、輿の上の少年の入った櫃に木釘を打ち付けて。
そんなことをしなくても、麻縄で両手両足を縛られて、轡までされた少年に、逃げるとこなど到底不可能であるというのに。
噛まされた麻布の轡には、唾液がびっしょりしみわたっていた。
轡をされたのは、まだ輿に乗せられる前だったのだから。
泣いているつもりはなかったのに、涙が一筋、横向きに寝かされている少年の鼻を伝って、流れ落ちた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
ただでさえ、櫃に閉じ込められて息苦しいのに、轡をかまされて、口で息をすることができない。
満足に空気を取り入れられない肺が、余計に恐怖をあおりたてているようだった。
この数日、両親はやさしかった。
父親は上機嫌で酒を飲み。
母親は、理性と感情がせめぎあっているかのような、ぎこちない笑顔で。
上等の衣を着せられて。
上等なものを食べさせられて。
柔らかい布団が与えられて。
顔を合わせる使用人すべてが、
「おめでとうございます」
と微笑んだ。
少年が通っていた森とつながっている山は、三危の山、というのだそうだ。
青い鳥三羽が守る山。
そして、本当に精魅が住んでいた。
それも、人を食う、精魅。
普段は頂上付近に住んでいるけれど、たまに、山を降りて、人をさらい食うのだという。
見た目は白い大きな牛のようだが、ヤマアラシのような剛毛に四本の角。
何よりも、肉を食うにふさわしい、釘のような牙。
長いこと、この地域の人々はその精魅に怯え暮らしていたけれど、しばらく前に、異国より訪れた占い師が決定的な改善策を進言したという。
いわく、
「生まれながらに白い人間は、老いては薬の材料となり、いまだ幼い内ならば、その血肉は精魅にとっての毒となる。
もし、この街に白い人間がいて、いまだ幼いのならば。その者を精魅に食らわせることさえできたなら、この街は未来永劫、精魅の害を免れることとなりましょう」
と。
その占い師の言は噂となり、街の長の耳に入った。
そしてその街の長は、部下の家に、生まれながらに白い子どもが産まれていたことを知っていた……
街の長は、長年街を苦しめていた災いを収めた、という名誉を得。
少年の父は、わが子を犠牲に街を救った、という栄誉を得。
街は、長いこと苦しめられていた精魅から解放されて、安息を得る。
ただ。少年ひとりの犠牲と引きかえに。
それは、悩む必要もない、好条件の取引だった。
もし仮に、その占い師の言が、偽りだったとしても構わない。
それならばそれで、もともと『いないもの』だった少年ひとりが、本当にいなくなる、という、ただそれだけのこと。
少年の命を惜しむ者は、誰もいなかった。
ぎしっ、と、少年の乗った輿が、悲鳴をあげた。
少年の白い額には、脂汗がびっしりと浮かんでいる。
街の人たちは、もうとおに帰った。
少年が動いたわけではない。
と、いうことは。
ぎしっ、ぎしっ、と音は少年が入った櫃の真上まで移動した。
みしり、と櫃がゆがみ、少年の目と鼻の先に、木を突き破って、黒いとがったものが差し込まれた。
その割れ目から、外の灯火の赤い光がかすかにもれ出る。
精魅の、牙か、爪だろうか。
やはり、自分は死ぬのか。
ここで、精魅に食われて。
せめて、もう一度……衛。
みしみしっ、ごりっ。
櫃の蓋が、ゆっくりと押しのけられる。
真っ暗な櫃の外から、灯火の赤い光が目を焼いた。
その、赤い光を逆光に、こちらをのぞいていたのは。
衛。
釘止めされた櫃を開けるのに、苦労したのだろう、その額には球のような汗が浮かび、灯火の赤い光に照らされて、きらきらと。
「……ぷっ。
ぷははははっ、なんて扇情的なカッコしてんのよ」
目を見開くしかできない少年に、衛は場違いな明るい声で笑った。
櫃のふちに前足をひっかけて、連れの狸までも不思議そうに少年をのぞきこんでいる。
「おっと、ゆっくり見てる時間はないんだった。
大丈夫?
な、わけはないか。
動ける?」
衛は少年の体を抱き起すと、手早く轡と手足の麻縄を切り落としてくれた。
先ほど少年が、精魅の牙だと思ったのは、衛が持つ黒曜の短剣だったらしい。
「え、えい……?」
「説明してる間はないんだ。
早くしないと、本物の傲咽がやって来ちゃう」
衛は、少年を木櫃の外へと引っ張り出すと、灯火の外の暗闇から、何やら白いけむくじゃらの生き物を背負って、輿の側へとやってきた。
どさっと下したそれは、少年よりひと回り小さい、狒狒のようだった。
「早く、その衣を脱いで、この狒狒に着せて」
「え?」
「弱い毒をのませて、気を失っているけど、まだ生きてるから。
この近くの山には、けっこういるの。
ほら、早く脱いで」
もたもたとしている少年から、大急ぎで衣と裳をはぎ取ると、衛は一包みの衣料を少年に投げてよこした。
「裸でも綺麗だけど、夜の山でその恰好はないわ。
それに着替えて」
衛は手早く狒狒に少年の着ていた衣服を着せると、ふたたび狒狒を背負いあげ、櫃の中へと収めた。
櫃の蓋を閉めようとしたとき……
バサバサバサッと、夜の森にふさわしくない、大量の鳥の羽ばたきが聞こえた。
「ちっ、もう来た!」
赤い灯火の光にもはっきりと青ざめると、衛は、まだ衣をひっかけただけだった少年の手を無理やり引っ張って、羽音とは反対方向の、夜の闇へと走りこんだ。
「えい?」
「しっ、黙って」
せっぱつまった声といっしょに、少年の口は、衛の湿った冷たい手に覆われた。
かすかに震えて、指先は氷のように冷たい。
何がなにやらよくわからなかったけれど、少年は、衛も恐怖を感じているのだ、ということを理解した。
命の危険があるのだろう。
走り逃げることもせず、じっと暗がりに息を殺している。
でも。
それでも、少年は、もう一度衛に会えたことと、衛に触れられている事実に幸せだった。
赤い灯火に照らされて。
見えたのは、赤い巨大な獣だった。
白い牛のような、とは、誰が言った例えだったのか。
蓑のような毛は、牛とはまったくの別物で。
大きさは、牛よりも遥かに大きく、むしろ家に近いほどで。
頭部にいただく、四本の角。
灯火がわずらわしいのか、巨大な蹄で、じゃりっ、じゃりっと踏みつぶしていった。
月明かりで、かすかに見えたのは、巨大な鼻面を輿の中に突っ込むところ。
みしみし、ばきり。
ごりっ、みちゃ、ごりっ。
何の音なのか、考えたくもない。
衛が、来てくれなかったら。
だれが、あの音になっていたのか。
「行こう」
小さな声で、衛がささやいた。
なるべく足音をしのばせて。
しばらく行ったとき、背後の暗闇から、どうっ、と何か重いものの倒れる音がした。