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その一 ・ 三嬢子(さんじょうし)

時は紀元前1892年、古代中国、(しゅん)帝の御代。渭水(いすい)のほとりにある、とある小村……



「ぼく、神明(かみさま)なんです。

 信仰してください」


 白髪赤眼の少年は、文命(ぶんめい)の手を両手で握りしめると、とろけそうな笑顔で、そうのたまった。

 口付けできそうな至近距離。

 文命より頭一つほど小さい。

 肌は透き通るほどの白、顔立ちはまだ幼さを残して、くるくるとした巻き毛も、少年の人外の美貌を引き立てている。

 が、あいにく、文命は男に言い寄られてもあまり嬉しくない。


「……喧嘩でも売っているのか?」


「違います」


 そのまま黙殺して歩き出した文命に、少年はしばし、ずるずるとひきずられた。


 文命の手を握ったまま、少年が文命の顔の前に手を差し出す。

 ぽんっ、とその手から花が咲いた。

 続けてもう一つ、ぽんっ、と頭の上に。

 季節外れの梨の花。


「ね、本当だった♡」


「………」


 文命の沈黙を何ととったのか。

 少年は小首をかしげると、自分の懐に手を突っ込み、そこから到底懐になど収まりそうにない大岩をにゅるりと取り出すと、文命の傍らにドスンっと置いた。

 衝撃が、地面を伝わって足の裏に響く。


「ね、本当だった♡」


「………」


 目を点にしていると、今度は文命の手を握った少年の輪郭がドロリと溶けて。

 見る間に重力に引かれ流れ落ち、びちゃりと足下に水溜まりとなった。

 完全に引いている文命に気付いているのかいないのか、少し離れた家の壁から、ピョコンと先ほど水溜まりになったはずの少年の頭がのぞき……イタズラが成功した子どものような嬉しそうな表情でこちらに走り寄って来る。

 そしてやはりガシッと文命の手を両手で握り。


「ね、本当だった♡」


「………」


 ちらり、と目線をやれば、確かに先ほどまで足元にあったはずの水たまりは消えている。

 相変わらず何も言わない文命に、少年は不満そうにちょっと口をとがらすと、


「信じてもらえません?

 なら……」

 

 『ゴッ』


 何かやりかけた少年の後頭部に、瓜の入った重そうな籠が激突した。


「もう、哥哥がーぐぁったら。

 また知らない方に無理を言ってたのですね!」


 撃沈した少年の後ろから現れたのは、少年と同じ白髪赤眼、透けるような肌の童女だった。

 八~十歳くらいだろうか。

 ただしその赤眼は、少年のものより大分色が淡い。

 少年を哥哥(お兄ちゃん)と呼んでいたことから、妹か。確かにどことなく顔立ちが似ている。

 子犬。オコジョ。鹿の子。


「でもね」


「でもじゃないですっ。

 哥哥がーぐぁはいっつもいっつも……

 あ、ごめんなさいです。

 あたし、あいって言います。

 こっちは、一応、兄の

 何かご用なのです?」


 どこか妙なデスマス調で童女が文命に向き直る。


(あい)、一応兄って…」


哥哥がーぐぁは黙っててです」


「……初めまして。

 俺は文命という。

 薬師の老太太らおたいたいの家がこちらだと聞いて来たんだが」


 どうやらようやく話を聞いてくれる人間が現れた。

 文命は自分が連れているロバを振り返った。

 連れているのは一頭、残りのロバは村の外につないである。


「ひょんなことから、ロバを二十頭ばかり世話することになってね。

 この村の老太太なら預かってくれるかも知れない、という話を聞いて尋ねて来たんだ」


 文命の話を聞いた娃はにっこりと微笑んだ。


「薬師の老太太なら、うちのおばあちゃんです!

 あたしも薬師見習いなんですよ。

 おばあちゃんのお客さんなら大歓迎です!

 でも、ロバです?

 薬じゃなくて?

 ひょっとして、薬の材料です?」


 じぃっと見つめるあいに、ロバが何となく嫌そうに視線をずらした。


「いやいや、本当に預かって欲しいだけなんだ。

 もちろんお礼はするし、預かってもらっている間、ロバは自由に働かせてもらって構わない。

 ただ、殺すのと傷つけるのは勘弁して欲しい。

 こんな話をして、信じてもらえるかは分からないが……

 このロバたちは、元は人間なんだよ。

 俺は旅人だが、そのまま見捨てて行くには抵抗がある。

 老太太の家は牛を何頭か飼っているんだろう?

 この辺りには、豚を飼っているうちは多いが、ロバは豚よりも牛に近いんじゃないかと思うんだ。幸い、ロバはそんなに手のかからない動物らしい。

 どうかな?」


 ロバが元人間、のくだりで目を真ん丸にしていた娃は、どうかな?と言われて急にわたわたと周りを見回した。


「そ、そんな、えーと、です?」


「まぁまぁ、娃。

 とりあえず、こんなとこで話してないで、ばあちゃんのとこに行こうよ。

 たくさんの動物を預かるかどうかなんて、ぼくらだけで決められるはずもないし」


 ようやく体を起こし、後頭部をさするにうながされて、娃はうなずいた。


「そ、そうですね。

 じゃ、じゃあおばあちゃんのとこに案内するです。

 付いて来て、です」




 文命は、いわゆる精魅もののけ退治を生業なりわいにしいてる旅人だった。

 とは言っても、摩訶不思議な力が使える、とか、仙人や神明かみさまの加護を得ている、というわけではない。

 今は昔、偉大なる黄帝陛下の御代、全国をめぐっていた黄帝陛下の下に、神獣・白澤はくたくが現れ、一万千五百二十にも及ぶ天下の鬼神(幽霊やもののけ)について語ったという。

 白澤によれば、あらゆる鬼神・精魅は名を持ち、名を知り呼ぶことによって、鬼神・精魅を退けることが出来るという。その鬼神・精魅の名を記したものを白澤図はくたくずという。

 黄帝陛下の子孫は十の氏族に分かれ、その族長の中で最も優れた者が、親子関係によらず帝位を継いでいる。姓は全て

 その十の氏族に各々白澤図が受け継がれているわけだが、文命の養父は、その氏族のうちのひとつ、こん一族の族長だった。

 つまり文命は、膨大な白澤図の知識を基に、各地を回り、精魅に対しているわけである。

 しかしもちろん、黄帝陛下の世からかなりの月日が経ち、白澤図の失われている部分もあれば、白澤図に載っていない精魅が現れたりもする。

 今回文命が遭遇したのは、そういった類の精魅だった。




「あら、いらっしゃいまし」


 その宿は、村から村をつなぐ街道の途中にあった。

 うっそうとした森の中、野生動物も多く徘徊し、時には精魅もののけも現れるとなっては、積極的に野宿しようという猛者は少ない。

 そんなわけで、宿があるならと泊まる客もたまにはいるのだろうが、もともとこの時代、旅をする人間はほとんどいない。


 文命がその宿を訪れたとき、他に客は一人だけだった。

 従業員を雇う余裕もないのだろう、女主人が一人で切り盛りしている宿だった。

 女主人の名は、三嬢子さんじょうし

 三十がらみになるだろうか、こんな辺鄙な場所には不釣り合いな、色気の滴るいい女だった。

 ゆったりと結い上げた髪を、骨製のかんざしで留めている。


 宿といっても、相部屋、大部屋に雑魚寝は当たり前。客を泊められる部屋は二つだけ。

 二部屋あるなら一部屋に一人でもいいようなものだが、掃除などいろいろな手間を惜しんだのだろう。

 旅に汚れた足を洗ってもらうと、文命は先客の男と同じ部屋に通された。

 先客の男は四十も半ばだろうか。

 大きな荷物を抱えて、商人のようだった。


「おかみさん、貝と塩とがあるんだが、宿代はどっちがいい?」


 紀元前十九世紀、この時代には紙幣はもちろん、硬貨も発明されていない。

 流通は物々交換が主流だが、文命のような旅人が持ち歩くのは、貝貨と呼ばれる希少な子安貝か、海から遠い地域では重宝される塩だった。


「貝貨とは珍しいものを持っていなさるね。

 こんな田舎でそんなものを渡されても使える所なんてありゃあしませんよ」


 女主人の言う通り、貝貨が使えるのは大きな街場に限り、さらに一泊の宿代ごときに支払うものでもない。

 むしろ田舎では、その小さな貝が、家畜一頭とも交換できるほどの価値があると、知る者さえ少ない。

 文命が貝貨の話など持ち出したのは、女主人、三嬢子が、どうにもこんな田舎のひなびた宿には似つかわしくないような心持ちがしたからなのだが……


 女主人の言葉に頷いた文命は、自分の持ち物の塩包みを開く。

 女主人の差し出したさじでひとすくい、包みの中の塩をすくうと、宿の塩壺の中へと塩を落とした。


「はい、まいどあり。

 大したものもありゃあしませんが、ごゆっくりなさってくださいまし。

 ああ、そうだ、お客さん」


 今まで文命に向かってしゃべっていた女主人が、既に壁に寄りかかってうつらうつらしていた先客に声をかけた。


「…ん?ああ」


「お客さんに頼まれたロバは、ちゃんと裏の小屋にいれて水と草をやっときましたから。

 それにしても、あの年取ったロバに、その荷物はちょいと乗せすぎじゃあござんせんかね。

 おっと、喧嘩をふっかけようってんじゃありませんよ。

 商売です。

 宿賃にもらったあわの四倍……いやさ、三倍の量を支払ってくれたら、アタシのほうで、もう一頭用立ててあげようじゃあありませんか」


「たかが三日分の宿代でロバ一頭とは、ずいぶん破格だな」


 思わず文命が口をはさんだ。

 貝貨ひとつで家畜一頭、それは貝貨の価値の高さと同時に家畜の価値の高さも表している。

 ロバ一頭売って三日の宿代にしかならないなら、ロバを潰して食べたほうがずっとも食いつなげる。


「いやね、ここんとこ急にロバが増えちまって…

 小屋が手狭になったもんだから。

 だからって言って、まだ働けるロバを潰して食っちまうのは可哀そうだ。

 お客さんのロバは、年取っちゃあいたが、逆に言えば、あんな年になるまで食いもせずに可愛がってるってことさね。

 粟を払ってもらえりゃあアタシもしばらくは食いつなげるし、ロバの食い扶持も減る、お客さんのロバも楽が出来て長生きできる。

 いいことづくめじゃあござんせんか」


 色気の滴る大年増にしな垂れかかられて、先客の商人は鼻の下をだらーんと伸ばしかけたが……慌てて首を横に振った。


「買い被りでございますよ。

 あたしが年取ったロバを使っているのは、単に新しいロバを買うだけの余禄がないからでして。

 だからおかみさんの申し出は渡りに船で非常に有り難いんではございますが……

 あたしにはその、余分に払う宿代の三日分がない。

 ここで余分に払っちまったら、あたしは目的の村に着くまでに、一日か二日は野宿しなけりゃならないでしょう。

 そうなったら多分、あたしも、もちろんロバも、村にたどり着くまで、生きちゃあおられない。

 もったいない。実にもったい良いお話なんですが……

 すみませんねぇ、おかみさん」


 しな垂れかかった女主人の両肩をつかむと、商人はいかにも残念そうに自分から引きはがした。

 その瞬間、おそらく商人からは女主人のかかげた袖に隠れて見えなかっただろうが……女主人の顔が、のっぺりとした無表情になるのが、文命には見えた。

 しかしそれはあたかも気のせいであったかのように、瞬く間に元通りの愛想の良い表情に戻っていた。


「そうですか、残念ですわぁ。

 よいお話だと、思いましたけれど」


 女主人によると、宿の裏手にある小屋で、十数頭のロバを飼っているのだという。

 今回のように、泊まり客のロバをそこで預かることもあれば、ロバが増えると泊まり客や近隣の村に譲ることもあるのだという。


 女手ひとつで、宿の仕事に十頭以上のロバの世話など、とてもじゃないがやりきれないのではないか、と尋ねると、女主人は、こんなひなびた宿、お客のあるほうが珍しいくらい、そしてロバは大して手のかからない生き物なんですよ、と笑った。


「そうそう、ちょうどそば粉をもらいましてね。

 明日の朝には、焼き餅にでもしてお出ししましょうねぇ」


 朝餉だけとはいえ、用意してくれる宿は珍しい。

 まして森の中の一軒家、塩ひと匙の宿。

 先客の商人と文命は上機嫌に礼を言い、その夜はお互い持っていた保存食をかじった。


 そのあとはもう何事もなく、日も暮れたこともあって、先客の商人と文命とは、板の間に藁を敷いただけの床に肘枕をして横になった。

 季節は夏の終わり。

 願わくはノミやダニのいませんように……




 商人のイビキが寝間に響く。

 一方の文命は、夜半になっても何故か寝付けないでいた。

 幸いなことにノミはいなかったが、風がぬけるようにと僅かに開けられた窓から、蚊が一匹紛れ込んできて、それが気になって眠れなかった、というのがひとつ。

 風の通りはあるものの、藁の敷かれた床が暑く、寝苦しいというのがひとつ。

 そして、夕刻の、女主人ののっぺりとした表情と、『急にロバが増えちまった』という言葉が何とはなしに気になったのがひとつ。

 虫やキノコではあるまいに、あの言い方はなんとなく引っかかる。


「……ふぅ」


 とりとめのないことを考えていても仕方がない。

 文命は料理場へ行き、水を一杯失敬し、その後寝藁をどけて板の間に直接寝ようと心に決めた。

 相部屋の商人を起こさぬよう、そぅっと戸を開けると、足音を忍ばせてかまどと水がめのある土間へと行こうとした。

 明り取りから僅かに星明かりがのぞくだけの、月のない晩のことである。ほとんど真っ暗闇の手探り足探りの移動だった。


「……?」


 そのとき、かまどにまだ火が灯っているのが見てとれた。かまどに火があるということはまだ女主人が何か夜なべ仕事でもしているのか……こんな夜中に?そう思って視線をめぐらせた文命の目に、何か小箱を持って土間にしゃがみこんでいる女主人が写った。

 かまどのわずかな赤い火に、逆光に照らされて、暗がりにいる文命には気づいた様子もない。


 女主人は大切そうな手つきで持っていた小箱の蓋を開くと、中から何やら取り出して、傍らにあった湯呑みからひと口水を含むと、ぷっと吹きかけ、かまどの前の土間に置いた。

 それは手のひらほどの大きさの人形だった。

 片手にすきを持ち、ちゃんと褌までしている、農夫の人形だった。

 それが五つ。

 地面に降ろされると、人形たちは立ち上がり、いっせいにスキで土間を耕し始めた。瞬く間に、人形からすれば広大な面積が畑になってゆく。

 そうすると今度は女主人は箱から小さな籠を出し、人形たちに渡していく。

 人形はどうやら、耕した土間に、籠から何かの種をまいているようだ。そこに薄く土をかぶせ……被せた端から、見る間に薄緑の芽が芽吹き、ぐんぐんと茎が伸びて。

 二、三度まばたきする間に、そこには、緑の葉に赤い茎、薄紅色がかった花びら。

 見事なまでのソバの花畑が広がっていた。

 まいた種は人形に合わせた砂粒のような大きさだったはずだが、成長したソバは、普通にそのあたりで栽培されているものと遜色ない。

 花が散る。

 そこには、黒い殻に包まれたソバの実が一面に実っていた。

 人形たちが、自らの十倍もあるソバの茎にいっせいに飛びつき、横にしならせると、器用な手つきで実を収穫していく。

 収穫が終わった頃、女主人は箱の中から小さなうすきね、それに粉ひき臼とふるいを出して人形たちに渡した。


「ごくろうさん」


 女主人がそう言ったときには、ソバの実は脱穀され、粉にひかれて、小箱の横の鉢に八分目ほどに積もっていた。

 女主人の言葉を聞いて、ただの人形のようにコテンと倒れた五つの人形と、小さな人形道具を大事そうに小箱にしまうと、女主人は鉢のソバ粉を半分ほど水がめの横の壺に入れ、残りのソバ粉に水を入れてこね始めた。

 どうやら、明日の朝に出すと言っていた、焼き餅を作り始めたらしい。


 喉の渇きも忘れて、文命は、女主人に気づかれないよう足音を忍ばせ部屋へと戻った。




 翌朝。


「すまないけれど、急ぎの用があるのを忘れていた。

 せっかく焼き餅を用意してくれると言っていたのに申し訳ない」


 早朝にそう断ると、文命は急いで宿を出た。

 とてもではないが、あんな形で作られたソバ粉を食べてみる気にはならなかった。

 それでも、発ち際に、もしもう焼き餅が出来ているのなら、歩きながらでもかじりたいので持たせてもらえるか、と尋ねると、女主人は、まだ焼けていないんですのよ、とやんわりと断った。

 既に夜中には焼き餅を作っていたのを文命は知っている。

 女主人の答えに、文命はより疑惑を深めたのだった。

 文命は街道をしばらく歩いたが……二里ほどいったところでこっそりと引き返した。

 どうしても、残してきた先客の商人がどうなったのか気になった。


「まったく、あんお人は損をしなすったね。

 おかみさんがせっかく作ってくれた焼き餅を食い損ねたってんだから」


 気配を殺して、文命が板戸の隙間からのぞくと、ちょうどそこでは商人がソバの焼き餅をパクついていた。


「なかなかどうして、うまい焼き餅だよ。

 こう、ソバの香りが鼻にぬけてね。

 まだちっとソバの季節にゃ早いはずだが、こりゃあきっと、ひきたてのソバ粉だ」


 なるほど、うまいのか。

 確かにひきたての新ソバの粉には違いない。

 文命が妙なことに感心していると、次第に商人の体や顔に茶色い毛が生え始めた。

 あまりのことに唖然としている文命の目前で、商人の体は徐々に変化していき、二つ目の焼き餅を食べ終える頃、その体はすっかり服を着たロバのものへと変わっていた。


「ぶひ、ぶひひーーーん」


 自分の手だった蹄を見て、悲しそうにいななくロバの声を聞きつけたのか、女主人が部屋へと入ってきた。その手には綱を持っている。


「ああ、また小屋が手狭になっちまうねぇ。

 話を受けてくれなかったアンタが悪いんだよ?

 この間の団体さまもまだ売れてないし、食べるにゃ気分が悪いし。

 まぁその内、近くの村にでもまとめて売っちまおう。

 そろそろ冬場の食料も考えなきゃならないしねぇ」


「ひん」


 女主人はロバに縄を結わえると、外へと引っ張っていった。

 おそらく裏のロバ小屋とやらに連れて行ったのだろう。


「……なんてことだ」


 女主人の気配がすっかりなくなってから、思わず文命はつぶやいた。

 あの様子では、ロバに変えられた人間は言葉もしゃべれなくなってしまうらしい。

 元人間であると誰に告げることも出来ず、ロバとして一生を送ることになるのか。

 文命は、女主人がまだロバ小屋にいるのを確認すると、商人の荷の中にソバ粉がないか探し始めた。

 そうして運よくソバ粉を見つけると、その包みから二すくいほどを取り出し、かまどのある土間へと忍び込むと、壺の中のそば粉と交換して宿を出た。

 文命のふところの中には、人をロバにするソバ粉が、ふたすくい。




 数日後、文命は再び、あの三嬢子さんじょうしの宿を訪れていた。

 懐には、女主人が作ったのとそっくりに作った、ソバ粉の焼き餅が、二つ。

 ここ数日、文命はこっそりとこの宿を見張っていたが、泊まり客は誰もなく、また、女主人がロバを売りに出た様子もなかった。


「やぁ、また世話になる。

 前に泊めてもらったとき、おかみさんの焼き餅を食べ損ねたことが気がかりでね。

 よそで泊まった宿で、ふと何かのはずみでそんな話をしたんだ。

 逃がした魚は大きい、と言うが、食い損ねた焼き餅はきっとうまかったに違いないだろう、ってね。

 そしたらそこの女主人が言うんだ。

 うちにも自慢の焼き餅がある。

 朝飯に食べて行って、もう一度その宿に泊まったら、今度こそそこの焼き餅を食べて比べてみてくれ、うちのほうが絶対うまいはずだからって。

 そんなわけで、申し訳ないんだが、明日の朝、また焼き餅を作ってはくれないか。

 前回は、ちょうどソバ粉をもらったと言っていた。

 そのソバ粉がまだ残っているかどうかはわからないが……残っていたら、ぜひに。

 これを条件に、前の宿賃はだいぶまけてもらったんだ」


 苦笑をうかべつつも、悪びれもせずに言いのけた文命に、女主人はいったん呆気にとられ……

 それから笑い出した。


「あらまぁ、それならぜひ、うちの焼き餅のほうが美味しい、と認めてもらわなけりゃなりませんね。

 幸い、前のソバ粉がまだ残ってますから、そんな手間じゃあありませんよ。

 けどいったい、そんな小憎らしいことを言ったのはどこの宿なんです?」


「ああ、ここから三日ほど行った宿の女主人だ。

 名は聞かなかったが……小太りの、四十路くらいだろうか。子どもが三人いたよ。

 主人には死に別れて、一人で宿を切り盛りしているそうだ」


 よどみもなく話す文命の言葉に、女主人は疑いを持たなかったようだ。事実、その子持ちの女主人の宿は存在している。

 ただし、それは三日ほどの距離ではなく、文命が以前に立ち寄った宿の話だった。


「それじゃあ、負けん気が強くなるのはしょうのないことですねぇ。

 あたしには、養わなきゃならない家族もあるわけでなし、そちらのほうが美味しいと言いふらしてもらって、一向にかまわないんですけどねぇ」


 女主人は快く朝食の焼き餅勝負を承諾すると、宿代の塩を受け取り、部屋を出ていった。

 文命は前回の反省を生かし、寝間の藁をどけると、板の間に直接ごろんと横になり、手枕で朝までぐっすりと眠った。




 次の朝、約束通り、女主人が焼き餅を持って文命の部屋を訪れた。


「おや、おにいさん、今日は随分とごゆっくりですねぇ。

 お約束したソバの焼き餅ですよ、召し上がってくださいましな」


 そう言って焼き餅の乗った皿を置き、出て行こうとした女主人を、ようよう起き上がった文命が呼び止めた。


「無理を言ってすまなかったね、おかみさん。

 ところで昨夜は言い忘れたんだが、例の宿の女主人から、そこの名物の焼き餅を預かってきているんだ。

 どうだね、俺だけがこちらとあちら、両方の焼き餅を食べ比べてアレコレ言うんじゃあ、後に禍根が残るだろう。

 おかみさんもひとつ、この焼き餅を食べて、食べ比べてみちゃあ。

 もちろん俺は、おかみさんの作ってくれた焼き餅をもらおう。

 そのために、わざわざここまで戻って来たようなものだしね」


 そこまで言うと、女主人は渋々といった感じで文命の差し出した焼き餅を手にとった。


「お哥さんは温かい焼き餅で、あたしだけ三日前の焼き餅っていうのはひどくありませんかね?」


 思いもかけなかった反撃に、文命は目を丸くした。


「そうか、そいつぁ気づかなかった。

 だが、そこの女主人は、日持ちもするのが自慢だとしきりに言っていた。もしかまどに火が残っているのなら、焼き直して食べてみるかね?」


 女主人はひとつ頷くと、文命の差し出した焼き餅を片手に土間へと向かった。文命もその後をついていく。

 女主人は竹串に焼き餅を突き刺すと、かまどの残り火で炙り始めた。


「やっぱり焼き餅ってくらいですもの、温かくなくちゃあね。

 あたしはこの、焼き立ての香ばしい匂いがたまらないんですよ」


「ああ、確かにうまそうな匂いだ。

 そこの水瓶から、水を一杯もらうよ。

 起き抜けのままだと、どうも喉が張り付いているような心持ちがしていけない。

 食べ物が喉をつっかえるようでね」


 そう言いながら、文命は水をひしゃくですくい、喉を鳴らして飲み込む。

 一方で……気づかれぬように、ソバの入った壺をちらりと確認した。

 壺の中身は減っていた。


「おかみさんは、いつからこんな商売を?

 どうもこのあたりのお人じゃあないような気がするが」


 ゆるく結い上げた髪からこぼれるおくれ毛が、白いうなじにはらりとかかって色っぽい。それは田舎の農婦には必要のない色気だった。例えば、そう、街場の商売女とかの。


「……そう、もうずっと昔のおなはし。

 とあるお人のところでお世話になっていたんでござんすけど……そのお人のことが好きすぎて、けれど、そのお人にとってあたしはたくさんいる弟子のひとりに過ぎなくて。

 たまらなくなって、一服の薬と、ひとつの小箱だけを盗んで、そのおひとに見つからぬよう、こんな辺鄙な場所に隠れ住んでますのさ」


 かまどの熾火をながめつつ、冗談めいた口調からは、それが真実なのかどうかさえ推し量れない。

 ほのかにただよった哀愁は、果たして文命の気のせいだったのかどうか。


「本当は、見つけてほしいんじゃないのか」


 そうつぶやいた文命に、女主人は驚いたように振り返った。


「俺は、そうだった。

 必死で隠れて、しゃべるのさえ拒絶していたことがあった……

 本当は探してほしかったんだと、今になれば思うよ。

 勝手な願いだがな」


 そう言いながら文命は、女主人にもらった焼き餅をひとつかじった。

 つられるようにして、女主人も、あぶった焼き餅を一口かじる。


「本当は探して欲しい……か」


「ああ、湿っぽくなっちまったな。

 昔の話さ。もう戻れない昔のね」


 お互いに焼き餅を食べながら、なんとはなく気まずい沈黙がおとずれる。


「そう、なのかも」


「きっとそうさ。

 だから、こんなことをしている」


「……え?」


 二つ目の焼き餅を食べ終わった女主人の顔に、体に、一面に茶色い毛が生え始めた。

 耳が伸び、蹄が現れ、結い上げた髪がぱらりとほどけると……そこにいたのは、女物の着物を着た、一頭のロバだった。


「だからこれに懲りたら、ロバ小屋の人たちを元に戻し、そのお人とやらを探しに旅だったらいいんじゃないかな。

 見つけて欲しいから、そのお人とやらから盗んだ小箱で術をかけ続けていたんだろう?

 売ってしまったロバを見つけ出すのは、もう難しいかも知れないが……」


「ひひーん」


「………

 おかみさん?」


 悲しげに小さくいななく牝ロバに、文命は首をかしげた。

 ちなみに文命が女主人の作った焼き餅を食べても人間のままなのは、今朝の焼き餅は、女主人が、数日前に文命のすり

替えたソバ粉で作ったものだったからだ。


「確か、人形の小箱は、師匠の元から盗んだ、と言っていたな……

 ということは、おかみさん自身、ひょっとして、術の解き方がわからない、とか?」


 ロバが小さく首を縦にふる。

 こちらの言っていることは理解しているらしい。

 けれど、人間の言葉を話すことは出来ない。


「………うわぁ」


 文命は思わず頭をかかえた。




作者近況・今年は台風の影響もなく、柿が豊作。渋いのもあるけど、百目柿が最強。柔らかい柿なんて柿じゃない!

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