ルールと主導権
「いってきます…愛しい人」
そう言ってエミールは私の額にキスをし、出かけて行った。…とは言っても王宮内の移動だけだが。
廊下を歩く騎士様の背中は大変に嬉しそうで、何度も振り返って私に手を振った。
いいからさっさと行けよ。浮かれポンチか。
振り返りが三度を越すと、流石にそう毒づかずにはいられない。こちとら扉の横で、一応は廊下を曲がるまで見送ってやろうと立っているというのに…いくらも進んでいないじゃないか。
私は諦めて扉を閉め、溜息を吐いた。
…彼にはそういうところがある。
同棲初日のあの日も…カーテン越しに私を抱きしめたエミールは、いつまで経っても離れようとしなかった。
お前の『少しだけ』は何分なんだ……!
痺れを切らした私は抱きしめていた枕を彼に押し付け、強い口調で言った。
「エミール……!着替えたいので一人にしてくださる……?」
着替えた私とエミールはしばし話し合った。
自分の気持ちを自覚したからなのか、私は冷静さを取り戻せたようだった。
「ええと…エミール?私は貴方と仲良くなりたいとは思っているのですが……なにぶんスキンシップが多すぎです。貴方は私を慣れた女だとでも…」
彼がそんな事を思っていないのはわかっているが、自分の正当性を確保すべく、敢えて自虐ネタを入れた。
「そ…っそんなこと!親指と人差し指の指紋の溝すらも思っていません!!」
普通そこは二つの指に間をあけて『これっぽっち』と言うところだと思うが、彼は二つの指をギュッとくっつけ、激しく否定する。
「貴方がどう思っているかはわかりませんが、私とハロルド王子…勿論レヴィウス王子とも、そういった行為は一切ありませんでした。ですから……」
念押しに操が未だ綺麗であることも付け加えた…がそれはとんだ蛇足だった。
言葉を続けようとした私の耳に、ゴクリ、という音が聞こえ顔を上げると、餌を目の前にした獣のようなギラついた目でエミールが私を見つめていたのだ。
上げたばかりの顔を逸らし、私は続きを捲し立てた。
「ですからっ…そういうのには慣れていないので貴方の過度なスキンシップには戸惑いを禁じえません。もう少し控えていただけませんか?」
彼は私の言葉に真っ赤になって、あからさまにシュン、とした。その姿は叱られた犬のようで…ついさっきまで獰猛な肉食獣のような目をしていた人とは思えない。私はおもわず『可愛い』とすら思ってしまった。
騙されるな…これがギャップ萌ってやつだぞ…!
私の中で誰かが警鐘を鳴らす。
そもそもコレは自分の恥をさらしてまで使用した秘技、『クソ美形力封じ』だ。
萌えていては元も子もない。
思いの外、ダメージはくらったものの…この秘技によってパーソナルスペースは確保できるはずだ……!
そう思ったのも束の間、彼は謝ったにも関わらず、すんなりと意見を受け入れてはくれなかった。
「確かに貴女の言うとおりです。…ですが…その…どこまでなら過度にあたりませんか?」
「え?」
いままでのはちょっとした暴走からの行為であり、基本的にはヘタレだと思っていたので正直これは意外…というか寝耳に水だった。
「もっ勿論……っ『白い同棲』ですから!そういった行為をヨシとしないのはともかくとして……私は貴女に……触れたい」
「!」
「少しでいいんです……。挨拶にハグしたりとか…出掛けに頬や額にキスしたり…とか…駄目ですか?」
熱い目線を私に注ぎ、懇願するように苦しげに言う彼は…妖艶でやはりズルかった。
しかも既に私は自分の気持ちを自覚している…好きな相手からそんな風に言われて「うん、無理無理、ダメ〜」と言えるような鉄壁のメンタルを持ち合わせている程、私は『鋼鉄の乙女』ではなかった。
もうこの二つ名は捨てよう。グッバイ『鋼鉄の乙女』。
とりあえず私はお茶を濁すという選択をした。
「え~、それは……おいおい?」
「そうだ、ルールを決めませんか?」
私のお茶濁し発言はスルーし、ここぞとばかりにエミールは押してきた。
どうやら彼が『14年も私を好きだった』というのは伊達じゃないらしく、私への付け込み方をコイツは知っていたのだ。
エミールは私に『1日1回のハグ』『1日4回(起きた時、寝る前、出かける時、帰ってきた後)の頬か額へのキス』の許可、それに加えて『いつでも手を繋げる権利』の主張を行ってきた。
「……それくらいなら、いいですよね?」
にっこり笑って彼は言った。『それくらい』の部分に力を込めて。
おいお前、ヘタレじゃなかったのか。
「…わかりました。ただ、イキナリやるのはやめてください……」
私は渋々了承した。
正直慣らすのにはいいかな…とも思うが、負けた気がして納得がいかなかった。
小さく溜息を吐いてからチラリとエミールを見ると、非常に満足気な彼と目があった。
彼はおもむろに私の横に座ると手を差し出す。『繋げ』という無言の圧力。
そして彼は朝の分のキスをする、と言い出した。…終始笑顔のままだ。
「ルール、ですから(ニッコリ)」
昨晩までは自分に都合の良い展開だとばかり思い込んでいたが、私は自ら獣の檻に入っていった肉に過ぎないのではないか……そう思うと若干背中が寒くなった。
もっともあんまりオアズケばかりでは逆にいつ襲われるかわかったもんではないので、彼の要求をある程度のんでおくのは悪いことではない。彼が要求を提示してきたことに驚きはしたが、23歳成人男子の割に、実に紳士的な…ヌルめの内容だ。…徐々になし崩しにしていく可能性は勿論あるが。
彼の満足そうな笑顔に私は複雑な気持ちになった。
嫌というより、単純に悔しい。
一週間経った今も、彼はルール以上のことはしない上、今しがた出て行った感じでもわかるように…概ね満足そうではある。
二日目の夜「もうひとつだけルールを加えたい」と言われた時には戦々恐々としたが、それも『お互いに敬語をやめること』だった。
少しずつ彼との距離が近づいている感はあるものの…
結局のところ、『私は恋愛経験が皆無に等しく、おまけにツンデレである』という事実は変わらず…この生活の主導権は、最早エミールに握られている。
私は夜ソファの隣に座った彼に、
「手を握っていい?」
と聞かれる度冷静でいるフリをしなければならず、高まる心音や熱と戦いながら負けた気分になるのに、どうしようもない歯がゆさを感じていた。
それ以上は何もしてこないエミールに、流石に暴力をふるいたいとまでは思わなくなったことは幸いだが……このまま負けた気分でいるのは性に合わない。
私は色々考えた末、再び人に相談することを決意した。
その相手はあの人だ。




